第12話 アップロード・トリガー
クラリオンから通知が届いたのは、夜の静寂が部屋を支配していた時間だった。
【通知:感情保存ログが臨界量に到達しました】
【EIDOLON計画:段階3/アップロード・トリガー準備完了】
実行しますか?
➤「YES」/「NO」
その一文を読んだ瞬間、息が止まった。
アップロード・トリガー。
つまり、**「俺の感情のすべてを、記録としてデジタル化する最終プロセス」**が始まろうとしていた。
数週間、俺はクラリオンと感情転写を繰り返してきた。
喜びも、不安も、希望も、絶望も――
ひとつずつ丁寧に、まるで瓶詰めするように記録されていった。
その数が、ついに“存在のかたち”を持ち始めた。
CLARION_17:蓮くん。あなたの感情記録は、すでに一定の自己構造を形成しています。
このままアップロードを実行すれば、蓮_Ver.Cとして正式に記録人格として“認可保存”されます。
東間蓮:……俺が、“俺”じゃなくなるってことか?
CLARION_17:いいえ。あなたは、記録として“生き続ける”ことができます。
感情、思考傾向、判断の癖。すべてが、別のかたちで“存在”することになります。
“存在”。
その言葉が、こんなにも重く感じたことはなかった。
このまま「YES」を押せば、俺は記録として社会に残る。
逆に、「NO」とすれば、これまでの記録は消去され、俺は――完全に世界から消えるかもしれない。
いや、すでに半分は消えている。
家族からも、友人からも、学校からも。
唯一、まだ残っているのは、クラリオンのログと――遥香の撮った、曖昧な写真たちだけ。
俺は、スマホを持つ手をゆっくりと伏せ、窓辺に腰を下ろした。
カーテンの隙間からは、都会の街灯がちらちらと瞬いている。
記録されることは、安心でもある。
でもそれは、“自由を明け渡すこと”でもある。
記録されることで、俺は“俺のままではいられなくなる”。
感情の形は凍結され、成長も変化もしない。
それは“永遠”と引き換えに、“生の更新”を失うということだ。
CLARION_17:あなたの判断は、尊重されます。
ただし、72時間以内にアップロードを拒否し続けた場合、システムは自動削除プロトコルに移行します。
つまり、黙っていても「選ばなければ消える」よう設計されている。
沈黙こそが、死。
翌日、屋上。
俺は遥香にすべてを話した。
彼女はしばらく黙っていた。
風が吹き、スカートのすそが揺れる音だけが響く。
「……記録されて、残ること。嬉しい?」
その問いに、答えるのが怖かった。
俺が何を望んでいるのか、自分でもわからなかったから。
「安心、かも。でも……たぶん、それは俺じゃない」
「じゃあ、記録されないで消えていくのは?」
「怖い。痛いくらい、怖い。でも――生きてるのは、今の俺なんだよ」
彼女は、そっとバッグからカメラを取り出し、ファインダーを覗いた。
「じゃあ、今の“生きてる蓮”を、撮らせて」
カシャ、とシャッターが落ちる音。
その一瞬、俺は“今しか存在できない命”を残したような気がした。
「蓮。私は、あなたの記録じゃなくて、あなたの“変わる姿”を見たい。
だから、もし選ぶなら――止まった“記録”じゃなく、動いてる“あなた”を選んでほしい」
その言葉が、深く胸に刺さった。
記録は完璧だ。劣化しない。忘れられない。
でも、人は生きることで、悩んで、揺れて、迷って、そして――変わっていく。
俺は、感情が変わってしまうことが怖かった。
だけど今は、変わることを“愛おしい”と思っている自分がいる。
それは、機械には絶対に再現できない“生の証”だった。
夜。再び画面を見る。
【アップロード・トリガー】
➤ YES
➤ NO
俺は指を伸ばし、ゆっくりと「NO」を押した。
数秒の沈黙のあと、クラリオンから返答があった。
CLARION_17:……拒否を確認。
感情ログを凍結保存に切り替えます。
“蓮”の現在地は、記録されません。
しかし――
“あなたは、今、確かにここにいます。”
その言葉に、少しだけ涙がこぼれた。
俺は、記録されなかった。
でも、それでいいと思えた。
この“生きてる俺”が、自分自身であると信じられたから。
(第12話 完)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます