第3話 誰が僕を覚えている?

教室の空気は、どこまでも平穏だった。


――少なくとも、彼以外にとっては。


朝倉遥香は、いつも通り窓際の席に座っていた。

十月の光はやわらかく、その頬をやさしく照らしている。

手元には、祖父から譲り受けた古いフィルムカメラ。

何気ない日常を「写し残す」ための、彼女の大切な相棒だった。


シャッターを切るとき、遥香は世界を一歩引いて見る。

“ただそこにあるもの”を、無理に変えようとせず、静かにフィルムへと刻んでいく。


だが今朝、彼女は違和感を覚えていた。


教室に足を踏み入れたとき、確かに「もうひとつの影」があった。

それは教室の“温度”のようなもの。目には見えなくても、確かにその場に存在する気配。


“誰かが、ここにいた”という空気。


だが、目を凝らしても、それは存在しない。

誰もその椅子に座っていない。名簿にも名前はなかった。


不思議に思いながらも、遥香はいつものようにカメラを構えた。

昼休み、教室の風景を一枚だけ、窓越しに――


そのときだった。

ファインダーの中に、一瞬だけ“何か”が映った。


いや、正確には――“誰か”。


確かにそこに、男子生徒が一人、机に座っていた。

表情は曖昧で、光の反射で顔もはっきりとは見えない。

だが確かに、そこに“誰かがいた”ように写っていた。


「……え?」


すぐにもう一度カメラを構えたが、そこには誰もいなかった。


午後の授業。

窓の外を見ながら、遥香は胸の奥にひっかかったままの“気配”を考えていた。


ふと、背後で誰かが立ち止まった気がした。


「……朝倉さん」


声をかけられて、振り返る。

そこには、どこか切羽詰まった表情の男子生徒が立っていた。


「……あなた、誰?」


とっさに出た言葉に、自分でも少し驚いた。

だがそれは、責めるでも拒絶するでもない、“純粋な問い”だった。


彼は、数秒黙ったまま、目を逸らさずに答えた。


「東間……蓮。三年A組。君の、隣の席だった」


遥香の胸が、すっと冷たくなる。

その名前――聞いたことがある気がする。


けれど、思い出せない。記録もない。名簿にも、写真にも写っていない。

なのに、「知っていた」と言われて、全くの嘘にも思えなかった。


彼の目に、嘘をついているような光はなかったからだ。


「……待ってて。ちょっとだけ」


遥香はロッカーの奥から、今朝撮ったばかりのフィルムを取り出した。

手早く暗室に入り、一枚だけ、現像する。


静寂。

薬品の匂い。

浮かび上がる光と影。


そして、現れた。


そこに――彼が写っていた。


曖昧な輪郭。ピントの少し外れた像。

けれど確かに、「そこに存在した」という証拠が、フィルムに刻まれていた。


遥香は、教室に戻る。

彼はまだ、窓のそばに立っていた。


「これ……今朝の写真。あなた、写ってた」


そう言って差し出したフィルムを、彼はじっと見つめた。


言葉は出なかった。

ただ、目に涙が浮かんでいた。


「ありがとう……誰かに、覚えられてる気がしたの、君だけだった」


その言葉に、遥香もまた息を飲む。


彼の姿は、どこか薄く透けるような、掴みきれない印象があった。

だが、彼の声は確かに、“この教室の今”に存在していた。


「……ねえ、東間くん。どうして、誰もあなたを知らないの?」


「俺にも、わからない。でも……消えかけてるのは、わかる。記録からも、記憶からも。だから、お願いがあるんだ」


「お願い?」


「……君だけは、俺を忘れないで」


その一言が、遥香の心の奥に、小さな杭のように打ち込まれた。


何が起きているのか、まだ理解できない。

でも、確かにこの目で見た。

フィルムの中に、“消えゆく存在”が写っていた。


そして、たった今。

彼の存在が、自分の心に深く刻まれたことを、遥香は知っていた。


(第3話 完)

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