律 ~奏でる世界~

みみみ

プロローグ1 地域伝承 近畿のとある地方


《井戸の神が眠るという村》

まだ「国」という言葉が霧のように宙をさまよっていたころ。

奈良県の飛鳥の北、山と山のあいだに、ひとつの村があった。

どの絵図にも名は載らぬ。されど、春になると桜が谷を満たし、

秋には鹿が神前を横切ったという。


その村には、音を奪う井戸があると、古より語り継がれていた。

名を「水無の井」。

だが、乾いているわけではない。

逆に、どれほど乾いた日照りにも、底は濡れていた。


ただ――水音が、しない。


石を投げても、波紋は立たず、響きも返らぬ。

人が声を発しても、その場に立てば、口の動きだけが宙を舞い、

音は、井戸の縁に吸い込まれてゆく。


**


ある年、村にひとりの少女がいた。

名を*阿礼(あれ)*という。

幼き頃に母を亡くし、物言わぬ老父に育てられた。

人と目を合わせず、けれども耳は異様によく、

誰も教えていない唄を、夜毎、小川のそばで口ずさんでいた。


その唄は、どこか懐かしくて、寂しくて、奇妙に静かだった。

音が在るのに、響かない。

言葉が連なっているのに、意味が見えない。

それを聴いた者は、夢の中で「水の底に引かれていく」感覚を覚えたという。


**


ある晩のこと。

阿礼は眠れぬまま、ひとり、例の井戸へ向かった。

月は朧、風はなく、虫も息をひそめていた。

少女は井戸の縁に座ると、柄杓を静かに落とした。


その瞬間――

世界が“静かになった”。


いや、元々静かだったはずだ。

けれどもその静けさは、“自然”のものではなかった。

耳ではなく、骨が沈黙したのだ。


阿礼はそこで、「音ではないもの」に触れた。

水面は揺れていないのに、

心の底に、何かが波打つような“在る”という響きが満ちた。


言葉にできない。

理解もできない。

けれど、確かにそこに“在る”。


少女の身体から、ふわりと声が洩れた。

それは、彼女が生まれて初めて唄った“他者のための唄”だった。


**


それからというもの、

村の者は、阿礼のまわりに集まるようになった。

彼女の唄を聴くと、頭痛が消え、眠れぬ子が寝つき、

泣くことを忘れた老女が、涙を零した。


だがそれは、喜ばしいことばかりではなかった。

ある者は、唄を聴いた夜に「夢で死んだ祖父と語った」と言い、

またある者は、翌朝、声を失っていた。


村の長は恐れた。

「これは災いだ」と。


**


その冬。

村の井戸は封じられた。

阿礼は、どこかへ消えた。

誰も探さなかった。

けれど、春が来ると、その唄だけが風に残っていた。


それを後の世の律者たちは、こう記した。


――“律が世界に訪れるとき、最初に揺れるのは音ではなく、沈黙である。”

――“その沈黙に触れた者を、わたしたちは『器』と呼ぶ。”


今も飛鳥の山のどこかで、

風がひとつ、唄のように鳴くという。

それを聴いた者は、

もう決して、音を“ただの音”とは思えなくなるのだ。

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