忘れられた海の底に沈むビニール袋
セツナ
「忘れられた海の底に沈むビニール袋」
今日は散々だった。
一年の不幸を一日に凝縮したような日だった。
昨日の夜にアラームをかけ忘れたせいで、寝起きは上司の叱責の声で目覚めるという最悪の朝から始まり。慌てて家を出たせいで、財布を忘れるという失態をかました。
今の世の中、現金が無くてもある程度生活ができるので財布の事は頭から投げ捨てて、手持ちのスマホで交通ICカードを起動し電車に乗る。
急いで着てきたため、しわの寄ったスーツを選んでしまい若干人の目が気になるが、どうせ誰も俺のことなんか見ちゃいない。
電車に乗ると、通勤のピークタイムを外したからか、ちらほら席が空いていて、無事に座ることができた。
電車の席に座ると最初の方は、隣の人に気を使い緊張感があるのに、しばらくすると強烈な眠気に襲われるのは何なのだろう。
さっきまでぐっすりと睡眠をとっていたせいで遅刻をしているというのに、誘惑してくる眠気に身を任せて僕は目を閉じてしまった。
電車の振動を感じながら見る夢は心地よく、まるで海を漂うビニール袋にでもなった気分だ。
本来は海という自然の場所にあってはいけない不自然なものだが、そのほうが海藻とかクラゲとかそういう物よりもビニール袋の方がずっと俺のようで似合っていると思った。
夢という形のない海に漂うビニール袋のような俺の意識は、徐々に深い部分まで潜っていき気付いたら――
「お客様?」
車掌が俺の肩を叩いていた、どうやら終点の駅まで寝てしまっていたようだ。
しわだらけのスーツの肩にはうっすらヨダレが滲んでいた。
まだ夢に半分くらい意識が残ったまま、スマホの画面を見ると、上司から鬼のように電話がかかってきていた。
電車を降りて上司に折り返しの電話をすると、電話口の上司は一周回って心配した様子に変わっていて「お前疲れてるんだよ、しばらく休め」と心配をしてくれた。
それが逆に俺の自尊心を傷つける。
ここまで仕事を一生懸命頑張ってきたのは、もちろん生活のためというのもあったが、それなりに使える奴だ、と思われたかったこともあった。
だから、今回のこの失態は俺の人生を左右するほどの事件だったとも言える。
今まで完璧に仕事もこなしてきたと思っていたのに。
実はそんなこともなかったのかもしれない。
がっくりと肩を落としながら一度も降りたことのない、遠方の地へと足を踏み入れる。
初めて改札を出る知らない駅。上司はしばらく休め、と言っていたが休むってどうすればいいんだ? 仕事をする以外の日中の過ごし方なんて想像ができない。
俺は知り合いにも「仕事が趣味だもんね」と言わるほどの仕事人間らしいので、休みの日も家に持ち帰った仕事をして過ごしていたので、今更どう過ごせばいいかわからない。
まぁ、俺にそう言ってきた知り合い、というのも知人の紹介で付き合うことになった女性で、そういう相手を『知り合い』と称してしまうところに俺の人間性が出ていると言われればそれまでなのだが。
降りた駅でしばらく歩いてみるが、全く土地勘が無いので、どこに向かえばいいかすらわからない。
とりあえず適当に歩いてみる。ごみごみした繁華街をしばらく大きな道沿いを歩いていると、徐々にビルとビルの間隔が空いてきて、少しずつ街の雰囲気が落ち着いていく。
そうしていると、道の端に『〇〇県美術館』という文字が見えた。
美術館か、学生の時に遠足とかそういう行事で着たことしか記憶になく、大人になってからは全く縁のなかった場所だ。
せっかく、こんな中々ない機会だし、こういう普段行かない所に足を向けても良いかもしれない。
そう思い、俺は看板の指す通りの道を進むことにした。
実際に到着した美術館は、外観でもかなり雰囲気がありそこだけ音が消えているような錯覚をした。
自動ドアを抜けると、外よりも気温が5度は下がったような気がした。
足音がやけに高く響くのを感じながら、受付窓口に近寄る。
窓口には、寝てるのか起きてるのかよく分からない、年配のおじいさんが座っていて、俺が近づくとゆっくりと顔を上げた。
「いらっしゃい」
おじいさんに入館料を支払おうとカバンを漁ってみるが財布が見当たらない。
そこで、今朝財布を忘れて出てきていたことを思い出した。
あたふたとカバンを漁る俺を、おじいさんはじっと見ている。
これでは不審者だ。こんなことをしていないでさっさと帰った方が身のためかもしれない。
そうして「すみません」とおじいさんに頭を下げてその場を去ろうとした。その時――
「これで大人2枚ください」
後ろから女性の声がした。
静かな声色なのに、場に通る綺麗な声。その声に引き寄せられるように振り返ると、そこには茶色の柔らかそうな長い髪の毛の女性がそこにいた。
しかしそこにいたのは女性一人だけだ。
その人は、おじいさんからチケットを受け取ると、一枚を俺に手渡してきた。
「はい」
「えっ」
女性に手渡されたチケットを見つめて、俺は呆けた声を出してしまった。
「入りたいんですよね?」
それに女性は頭をかしげながら聞いてきた。
「まぁ、そう……ですけど。でも、知らない人にお金を出してまで入りたいわけでは……」
ごにょごにょと言葉にならない事を言っていると、女性は「そんな事」と呆れたように肩をすくめた。
「別に、700円くらい。芸術に触れてもらうには安いくらいですよ。とにかく入ったらどうですか?」
初めて会った人間にお金を貸すことを何とも思っていないのか、少し自分とズレた価値観を持っている人だ、と思った。
だけど、先ほどまで電車で爆睡をし全く知らない土地でこうして美術館なんてものに足を向けている……まさに非現実の中にいる俺にとっては、これも夢の延長のような感じだった。
だから。「あとでお金返します」と言って、俺はさっさと前を歩いている女性について入館することにした。
美術館内に足を踏み入れると、そこは美術品を守るために落とされた暗い照明に包まれていて、やはりここが夢の続きなのかもしれない、とボヤっと思う。
気付くと女性を見失ってしまっていたので、俺は順路に従いながらゆっくりと飾られている美術品を見て回ることにした。
色んな作品を見ながら歩いていると、ふと一枚の絵画に視線を奪われた。
その額縁の中には、深い深い青い色で塗りつぶされて表現されている『海』と、その海の底にはブラウン管テレビのような物が沈んでいる姿が描かれていた。
そしてその絵画の下には『忘れられた海の底』と書かれていて、俺はしばらくその絵から目を離せずにいた。
「好きな作品は見つかりましたか?」
耳なじみのいい声に振り向くとそこには先ほどの女性が立っていた。
「そうですね、見つかりました」
俺はそう頷くと、女性は嬉しそうに微笑んだ。
「それはよかったです」
女性と言葉を交わした後、少しだけ作品に視線を戻して「この作品のタイトルはどういう意味なんだろう」とひとしきり考察をした後で、女性にお金を借りていたことを思いだして、はっと「そういえば」と振り返ったがそこにはもう女性はいなかった。
慌てて順路をたどり最後のまで歩いて行ったが、結局その女性に再び会うことはなかった。
そこからはどう帰ったのか分からない。
朝からずっと夢の中にいるような気持ちのまま、布団に入って眠りについた。
その夜に見た夢は、深海の奥底までビニール袋になった俺が沈んで行って、そしてそのまま眠ってしまう。そんな夢だった。
次の日目が覚めると、いつも通りの時間に携帯のアラームが鳴ってくれて、俺は無事に目覚めることができた。
そして、いつも通りの電車に乗って、いつも通りの道をたどって、そしていつも通りに会社に出勤した。
出勤したら、上司は「大丈夫か?」と心配してくれたが、それ以上は何も言われず俺はいつも通り仕事を開始した。
昼休みになんとなく、昨日の美術館で見た絵と女性の事を思い出して、記憶の海に沈んでいきそうだった絵画のタイトルをブラウザに入力して検索をすると、作者の名前と写真が出てきた。
そしてそこに映っていた女性は、まさに昨日美術館で出会ったあの女性だった。
そして彼女の「芸術に触れてもらうには安いくらいですよ」という言葉を思い出した。
もう一度、あの人に会ってお礼を伝えたいと思ったが、きっとあの美術館に行っても、もう彼女には出会えないだろうと思った。なんとなくだけど。
そして俺の日常が再び元に戻ってきたわけだが、俺は多分もうしばらくあの海の夢を見れないだろうと思った。
きっと。
いつか深く深く、またあの海に潜れたなら。次はどんな景色を俺は見られるのだろうか。
思い描いて、今日も電車に揺られるのだった。
-END-
忘れられた海の底に沈むビニール袋 セツナ @setuna30
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