凡人、異世界に転生す

セメントモリ

第1話 転生!レオンハルト・フォン・アルディスハイヴ!

灰色のビルに囲まれた冷たいアスファルトの上で、俺は倒れていた。


(ああ、もう……痛みも感じない……)


池上獅郎、二十歳。

俺の命の灯火は、今まさに吹き消されようとしていた。


人生を振り返っても、これといって語れるようなことはなかった。

義務教育をなんとなく終え、地元の普通の高校を卒業して、偏差値も並の大学に進学。二年目の春を迎えたばかりだった。


運動も苦手。勉強も並。夢中になれるものなんてなかった。

ただ、流れるままに生きてきた。まるで波紋ひとつ立たない池のような、静かで退屈な日々だった。


(……でも、最後に少しは、意味を持てたのかもしれない)


俺の横で、地面に広がった血のそばで、少女が必死に俺の名を叫んでいる。

声がかすれ、泣き叫ぶその姿を、ぼんやりとした視界の端で見つめる。


櫻井由奈。幼馴染で、俺とは正反対の存在だ。

明るく、成績も運動も優秀で、誰にでも好かれる。そんな彼女が、今は俺のために泣いている。


今日、彼女は赤信号を渡ろうとした小さな子供を、反射的に庇おうとしていた。

そして、その彼女が車に撥ねられる寸前——

何も考えず、体が動いていた。


気づけば、俺が由奈を庇っていた。


(俺よりも、ずっと価値のあるやつを守れた……それだけで、少しは……)


体から力が抜けていく。

血が流れているのは分かるのに、もう痛みは感じなかった。手足の感覚も消えていく。

視界が、どんどん暗くなる。


(……本当は、何かで一番になってみたかった。夢中になれるものが……欲しかった)


思えば、ただそれだけのことが、ずっと叶わなかった。

心から何かを愛したかった。打ち込めるものを、見つけたかった。

だけど、叶わないまま、俺の人生は——


——終わった。そう、思った。



……が、意識は消えなかった。


ぼやけた意識の中で、どこか賑やかな声が聞こえる。

まるでどこかの屋敷の中にいるようなざわめきだった。


(……え?)


ゆっくりと目を開くと、目に飛び込んできたのは見たこともない天井。

天蓋付きの寝台の上、豪奢なシャンデリアが頭上で輝いている。

周囲には、黒と白の制服を着た女性たち——メイド服だろうか?——が、忙しそうに動いている。


そして俺を抱きかかえる、美しい女性。


黄金色の髪。澄んだ碧眼。まるで宝石のように輝く瞳と、柔らかな微笑み。

この世のものとは思えない美しさが、まるで聖母のように、俺を見つめていた。


……


………あ、これ……転生だ。


小説や漫画で見たことのある、あれだ。

異世界転生。それが今、自分に起きていると、ようやく理解した。


「坊ちゃま、どうか落ち着いてくださいませ……!」


慌てた様子のメイドが、タオルを差し出してくる。どうやら俺は暴れていたらしい。

赤子の身体は自分の思い通りにならず、泣くことすら止められなかった。

身体の奥から湧き上がってくる涙は、きっと転生という理解不能な体験に心が追いつけていないからだろう。


「大丈夫よ、レオンハルト。お母様がついているから」


その金髪の美女が優しく微笑み、俺の額にそっと手を当てる。

その温もりは、不思議と心まで染み渡ってきた。


母って、すごいな……。

ていうか、この人が俺の母親? 美人すぎるだろ。

将来の自分の顔、ちょっと期待してもいいかもしれない。


(レオンハルト……? ああ、これが俺の新しい名前か)


格好いい。しかも明らかに洋風。

部屋の造りや服装から見て、中世ヨーロッパ風の世界だろう。

なら、魔術とか、剣とか、そういうのもあるかも?


まるで子供のように、胸が高鳴る。……いや、子供だった。今は。


大きな扉が、バン!と勢いよく開かれた。


「アリシア!!」


男性の声が響く。銀髪で鋭い眼差しを持つ、その男はまるでハリウッド映画から出てきたような雰囲気だった。


「御当主様!」


メイドの一人が慌てて頭を下げる。

“当主”という言葉。部屋の内装から予想はしていたがやはり貴族に産まれたのだろう。つまりこの男は、この貴族家の長——そして、俺の父親なのだろう。


「お前たちも……よくやってくれた。母子ともに無事でいてくれて……本当に、良かった……!」


男は目頭に涙を浮かべ、かすれた声で言った。

その言葉にメイド達は一斉に頭を下げた


「あなた、この子を抱いてあげて」


母が俺を父に差し出す。

だが父は抱き方が分からず、戸惑っていた。


「あっ、あぁ……わ、わかった……」


見かねたメイドが、抱き方をそっと教える。

不器用に、けれども大切そうに、父が俺を抱いた。


「こ、こうか……?」


「うふふ、レオンも喜んでいるわ」


母が微笑む。

確かに、父に抱かれると、不思議と安心する。

この感覚……なんだか懐かしくて、温かい。


「そ、そうか、それは良かった……レオン、レオンハルト・フォン・アルディスハイヴ。お前は、アルディスハイヴ公爵家の嫡男。リーウェイン王国に忠誠を尽くす者として、誇り高く育ってくれ」


公爵家。やっぱり貴族……それも最上位じゃないか。

俺の新しい人生、思っていた以上に“当たり”を引いたらしい。


「生まれてきてくれて、ありがとう。レオン」


父の言葉に、母の穏やかな微笑みが重なる。

愛されている。そう実感できるだけで、胸がじんわりと温かくなる。


新しい人生が、今、ここから始まる。


——俺は、レオンハルト=フォン=アルディスハイヴ。

かつて何者にもなれなかった男の、二度目の人生だ。

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