ながれる、銀河。
ヲトブソラ
ながれる、銀河。
築五十年、平屋。都市ガスは引かれておらず、月に一度、プロパンガス業者がボンベを替えに来る。夏になると近所のお年寄りと地区の草取りをして、冬になる前は落ち葉集め。二ヶ月に一度、溝の掃除がある。世間に伝播する嫌な話題より世間話の移り変わりと回覧板の方が回る速度が早いのだけど、ぼくにとっては楽な生活だ。
お風呂にシャワーは無く風呂桶に水を張って、家の裏にある湯沸器で沸かすタイプ。春先から秋までのあいだは地球外生命体かと思うほどの巨大な虫がたまに出る。今日も一日の汗を流す為に湯沸器のノブを回し、火を点けた。
かちっ、かちっ、か……ちっ、ボッ!
二度、普通にノブを回して、三度目はゆっくり回すのが火を点けるコツ。こうしないと火が点かないけれど、どういう仕組なのかは知らない。一応、業者に点検をしてもらったのだが、特に異常や危険性は無いらしいので、わざわざ取り替えることもないかと、これがこいつとの付き合い方だと思って、そのまま使っている。
ぼく好みのお湯の温度になるまで夏は四十分、冬は一時間十分。
その間、タイマーをセットして庭側の板間に置いた椅子に座り、最近買った銀河の本を読む。
からん。
本に夢中になるぼくに対して〝相手をしろ〟と自家製ジンジャーエールに入れた氷が鳴いた。手を付けずにいた黄金の液体をマドラーでくるくると回し、辛味とミントの爽やかさで喉を潤す。
ピピっ、ピピっ、ピピっ…………
本を床に置き、風呂桶のお湯を手で混ぜて、好みの温度になっているのか確認する。これもまた最近買った紺に近い青色の入浴剤を入れて、また手で混ぜると、その青い渦巻きが銀河みたいだった。渦の中心できらきらと跳ねる照明は、太陽みたいな恒星かな。水星はどこだろう? 木星は? ぼくの好きな土星は? 現住所があるこの星はどこだ? 湯気と天井の温度差でできた水滴が銀河系に落ちてきた。彗星だ。
体を洗い、桶で泡と汚れを流すと排水口に吸い込まれていく泡が星雲みたいに見えた。この管の行き先は知らないが戻ってくることはないので、ここは光や星々を吸い込んでいくブラックホールなのだろう。風呂桶に深く浸かると銀河という名のお湯が流れ出して洪水を起こし、せっかく綺麗に整頓したシャンプーや桶、石鹸の入れ物をがらがらと弾いて新しい宇宙を生むビックバンが起きた。
大きく息を肺いっぱいに吸い込んで、お湯に潜るとそこは宇宙空間だ。耳が押されて、こおおお、と、不思議な音が聞こえる。裸という宇宙服を着込み宇宙船から出て、肺の酸素ボンベが空になるまで数十秒間の宇宙遊泳。まぶたを閉じて感覚を研ぎ澄まし、浮力で軽くなった重力を感じる。
なるべく人と関わりたくなくて、都会から逃げるように、端に、端に、と引越して、たどり着いたのはコンビニなんか無くて、お店も夕方五時半で閉まって、お年寄りしかいない町に引っ越してきたのに、回覧板に、畑で採れた野菜に、たくさんくれる余ったおかずやお漬物に、町内会の飲み会に、縁側で飲むお茶に、巻き込まれる井戸端会議にと、どんどん人の引力に引っ張られる銀河の中心だった。
ぷはっ。
ざばっとお湯の宇宙空間からミッションを終え、お風呂という名の宇宙船に戻る。ほんのりと熱を蓄えた頭で裸電球の付いた天井を眺めた。都会の暮らしは人の密度が高いから苦しいんだと思っていた。だけど、それは違うのだと、この町に来て知る。ぼくが苦しかったのは、無関心の密度が高い渦に飲まれるのが苦しかったみたいだ。世界の、宇宙の端に住むつもりで人口密度と生活の利便性から離れるほど、関係の密度が増していった。さて、この町は銀河に例えると星の多い中心か、星が少なく、まだ観測されていない物質ダークマターが多く浮遊する銀河の端か。風呂桶から出て、お湯を頭からかぶり汗を流す。再び、出来る排水口に流れ込む銀河。
果たして、ぼくは望み通りに世界や宇宙の端に住んでいるのだろうか。
都会の大勢が作る歩行者の渋滞がぐるぐると渦を作らせて、そのうち耐えきれなくなった人たちはビッグバンを起こして、ちりぢりにそれぞれ住みたい宇宙や星に移住するのかもしれないな、なんて考えて風呂桶の底にある栓を抜くと、宇宙船お風呂場号は大気圏に再突入をし、バスタオルのパラシュートを開いて地上に生還する。四十分の宇宙計画を終えたお祝いに、蚊取り線香の匂いと風鈴の鳴る縁側に座り、自家製ジンジャーエールで乾杯をする。
今夜も一日の疲れとともに流れた銀河系の香りがほのかにする。
おわり。
ながれる、銀河。 ヲトブソラ @sola_wotv
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