第39話『山月記』中島敦
藤光って、エンタメ作品ばかり読んでる人だな。エッセイをここまで読んだ人は、そういう感想を持つことでしょう。自分でも文学作品が少ないことに驚きました。本人としては、いっぱしの文学好きのつもりだったのです。なんてことないエンタメ好きを露呈しただけでしたね(汗)今回取り上げる『山月記』は文学作品ということになっていて、少しほっとします。ただし、主人公は虎に変身してしまうから伝奇小説なのかも……。
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山月記の書き出し部分を抜き出してみました。このあと、高級官僚を辞めた李徴は、詩人として身を立てようとしますが世間から認められず、生活のために今度は地方役人として働きはじめます。ところが、かつての同期たちがはるか高官に出世している反面、いまの李徴はかつての自分よりずっと官位の低い地方役人のそのまた部下という身分です。詩人になるという夢を捨てた後悔とかつての同期に対する羨望、低い官位に甘んじる屈辱にプライドの高い李徴は心穏やかでいられません。ついに発狂して夜の山野に飛び出し、帰ってこなくなったのでした。
数年して、監察御史(各地を回って役人の行状を監察する官吏)を務める袁傪という男が、李徴のいなくなった辺りを通ったとき、草むらから大きな虎が躍り出てきて、袁傪に襲いかかりました。ところが虎は急に身を翻して草むらに消え、草むらからは「危ないところだった」と人の声が。袁傪と同期の科挙に合格したかつての俊英、李徴は人喰い虎となって旧友の前に現れたのでした。李徴は草むらに姿を隠したまま、自分が虎となってしまった理由を袁傪に語って聞かせます――。
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他でもない。自分は元来詩人として名を成す積りでいた。(中略)はずかしいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、
何故こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依れば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、己は努めて人との交まじわりを避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論もちろん、曾ての
己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔いさぎよしとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との
人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。
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『山月記』は強い自意識に苦しめられた挙げ句、姿を虎に変えてしまった男の話です。この物語は自意識の強い人にとって戒めの書であり、同時に救いの書でもあります。
高校生の頃、はじめて読んで衝撃を受けたのは、主人公の李徴の性格や考え方、行動がそっくりわたしと同じだったから。李徴は「性、狷介」と簡単に描写されていますが、その意味は、「心が狭く自分の考えに固執し、人の考えを素直に聞こうとしないこと」です。ことさら自分を貶めたいとは思いませんが、まったく自分のこととしかこととしか考えられません。それだけに感情移入して読んでしまうのです。
李徴の苦悩は、わたしの苦悩と同じです。
◯職場の同期たちがわたしを差し置いて出世していく様子を見ると――
◯同じワナビだったカクトモたちが作家デビューする様子を見ると――
いたたまれない気持ちになります。どうして彼らなのか、なぜわたしじゃないのかと。しかし、その答えはもう『山月記』のなかに描かれているのです。なぜならわたしは李徴、人の姿をしているのものの、すでに心は虎なのですから。そう思うと悲しくて少し愉快な気持ちになるのです。
くれぐれも皆さんは虎になどならぬよう――お気をつけください。
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中島敦(1909-1942)は、東京都出身の作家。代表作に『李陵』、『山月記』、『名人伝』などがある。漢籍の教養に裏打ちされた格調高い漢文調の文体が魅力的な作家。若くして亡くなりましたが。高校の教科書に『山月記』が収録されたことで、作品の割には非常に有名といえるでしょう。
次回は、司馬遼太郎『播磨灘物語』を取り上げます。
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