大会直前のTS
AK3t(TuT)
前編
俺は中学・高校共に陸上部に所属していた。
走ることは好きだが、俺はかなり足が遅かった。
全く情けない事に、同級生には100m走のタイムで1秒以上離され、下級生にも余裕で負ける。
自分よりも速い相手に囲まれ、つい比較してしまい、走ることの楽しさを見失いかけていた。
転機は中学2年の冬だった。
顧問の戯れで、当時誰も専門種目としていなかったハードル走を、短距離の部員全員でやってみようという···ちょっとした“遊び”の日があった。
俺のいた中学にフレキハードルなんてものは無かったから、バーが木製で、重たいハードルを飛ぶ事になった。
男子が飛ぶハードルの高さは90cm余りだけど、これを走りながら飛ぶのは難しい。
走り高跳びの90cmとは完全に別物だ。
それに、ハードルに足を引っ掛けてしまうとド派手に転倒する。
最悪骨折もあるから気をつけろと顧問に言われた結果、先輩すらも腰が引けて、無駄に大きく高く飛んでしまった。
俺は比較的マシだった。
「遠くから、強く、低く飛んで、ハードルを抜き去るイメージ」。
顧問の言ったイメージに、俺が一番近かった。
今思えばお粗末な物だったが···それを見た顧問は俺に言った。
「ハードルに興味はないか?」と。
それから俺は110mHに転向した。
最初は
俺は足が遅い。スピードが出ないと歩幅も狭くなりがちだから、9mのインターバルを3歩で行くのは困難だった。
最初の2台までが精々で、残りの8台は5歩。
最初の大会は、ちょこちょこと無様な走りをするしか無く、タイムもクソだった。
結局ここでもスプリント力の無さで勝負出来ないのか。いや、まだ活路はあるはずだ。
そう信じて情報を漁り、自分なりの答えを導いた。
着地した最初の足を0歩目とする時、抜き足の処理が下手だと0歩目と1歩目の距離が狭くなる。
このロスのせいでインターバルを3歩で走れなくなっていた。
だから俺は抜き足を磨いた。
股関節のストレッチに加え、歩行とハードルの動きを混ぜる──ハードルドリルを地道にこなし、俺は抜き足の処理がかなり上達した。
中学最後の総体では県大会に進出。
最後の10台目までインターバルを3歩で走りきり、タイムも自己新記録をマークした。
高校からも俺は陸上部でハードル走に励んだ。
高校男子が飛ぶハードルは、中学の頃と比べておよそ15cm高い。
高さへの順応には苦心したが、それでも中学の経験が活き、記録は少しずつ良くなっていった。
練習は苦しいけど楽しかった。
そして明日は高校最後の大会。
俺は大学では陸上部に入らない予定だから、これがおそらく人生最後の大会でもある。
···今まで積み上げたものを出し切る。
その決意を胸に、俺はベッドの上で薄い毛布に包まって寝た。
◆◆
朝起きたら、俺は女になっていた。
自分と違う、高く透き通った声。
やや控えめだが女性的な胸。
着ていたパジャマはオーバーサイズ。
そして股間にあるべき“モノ”が無かった。
実を言うと、俺にはTS願望があった。
美少女になってチヤホヤされたいと願う人は、俺だけじゃないはずだ。
だから本来ならこれは喜ばしい事···なのだが。
「なんで大会当日にTSするんだよ」
この一言に尽きた。
ひたすらタイミングが悪すぎる。
どうすればいいのか悩んでいると、母親が俺の部屋のドアを勢いよく開けた。
なかなか起きてこない俺を見かねたんだろうが、それが良くなかった。
母親からすれば、息子の部屋に知らん女がいたんだ、驚かないわけが無い。
早朝から悲鳴を上げさせてしまい、しかもその声で父親と弟まで起きたもんだから、俺が俺である事の証明に手間取ってしまった。
時刻は既に8時。
みんなはもう会場行きのバスに揺られている。
スマホの顔認証は使えなかったが、指紋認証が使えたので、部活のグループチャットで謝罪メッセージを送った。
今日の大会には参加できません、と。
「···会場まで送ろうか?」
「·········うん、お願い」
大会が開かれるスタジアムまでは、家から車でおよそ1時間半。
その間、母親と俺は何も喋らなかった。
気まずい沈黙だった。
会場に到着。
俺は1人で車から降り、母親は「帰る時はスマホで連絡するように」とだけ俺に伝えて走り去った。
背中に背負ったリュックサックには、母親が作ったおにぎり3個やユニフォーム、それからスパイクや着替えも入っている。
『一着、◯◯◯◯さん。◯◯高校』
アナウンスがスタジアム周辺に響いた。
第1種目は確か、女子の100mHだったか。
という事は、その次は男子の110mH。
俺が出るはずだった種目だ。
···階段を駆け上がると、鮮烈な景色が俺の目に飛び込んできた。
青空の下、観客席はほぼ満員。
ホームストレートには高さ1.067mのハードルが各レーン毎に10台、ズラリと並ぶ。
スタート地点には各学校の精鋭が立っている。
『───On Your Marks』
会場が静まり返る。
選手たちがスターティングブロックに足を合わせていく。
···やがて全員の姿勢が完璧に整い、場の雰囲気がより鋭く、重くなった。
『───Set』
審判が手に持ったピストルを頭上へ掲げ、選手たちは後ろ足の膝を上げる。
『 』
───電子ピストルが鳴り響き、7名が一斉にスタートを切る。
洗練されきったフォームで、ストライドで、ピッチで。
ハードルのバースレスレを前傾姿勢で攻めていく、僅か20秒にも満たない疾走。
俺自身も普段当たり前にやっていた事が、観客スタンドから見下ろす今は、余りにも眩しい。
『一着、◯◯◯◯くん。◯◯高校』
堪えきれなくなって、俺は耳を塞いでアナウンスを聞かないようにした。
そのまま引き返して階段を駆け下り、スタジアムから全力で走った。逃げた。
「っ、···ぅう···!」
涙を拭いながら走る。
今日のために仕上げてきた身体は、女になっても憎らしいほどスムーズに動いた。
ひたすら···どれだけの距離を走ったのか。
立ち止まってあたりを見回すと、スタジアムのある公園からはとっくに出ていた。
両端を木々に囲まれた見知らぬ公道。
田舎によくあるタイプの道だ。
歩道の端に寄って、スマホのインカメラで自分の顔を見る。
そこには知らない“
「はは···すげー可愛い」
乾いた笑いがこぼれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます