→→第2話

 『影』とは、諜報活動や隠れて護衛を行う者の総称。

 このシェイド、得意技は麻酔薬を仕込んだ吹き矢を誰にも気づかれぬようターゲットに当てて眠らせる事。そして変装や腹話術で他人そっくりの声を出すこともお手のもの。ピーターと名乗る男性を眠らせた後、助けるふりをして腹話術で喋っていたのですわ。


「……わかりました。でもメリー様は?」

「フローラ様、おわかりになりませんか」

「……考えたくないわ」


 インク瓶のフタを開けたまま走ってくるなんて、常識を知らない以前の問題ですもの。走ってきた勢いに任せ「うっかり」インクをかけるつもりだったとしか思えません。あのメリー様が、私に?


「流石フローラ様ですね。賢くお優しい」


 シェイドは唇を薄い弧の形にしましたが、声は無感情なので褒めているのか嫌味なのか判断がつきません。前の『影』とは付き合いが長かったけれど、褒めたり嫌味を言うような人ではありませんでしたし。


 実は『影』は私に付いていると言っても、ゲティンボーブド公爵家で雇ってはいませんの。私がロイド殿下の婚約者となった時から私の身を守り、また、私が殿下を裏切らぬよう監視を兼ねて王家から遣わされているのです。


 一年前、学園に入るまでは女性の『影』が私の侍女に紛れて傍に居ました。しかし選ばれた生徒だけが通える王立学園では、生徒は身分の格差を考慮せずできるだけ自由に交遊関係を広げよ、と表向きの校風は作られています。そんな学園内で侍女を連れて動くことは逆に悪目立ちしてしまうのです。


 それでシェイドが私の元に来たと聞いています。本当の年はわからないけれど学生に見えるほど若く、そして細身でほどほどの身長なので時には女子生徒にも変装できる彼は、目立たない生徒のふりをして私と付かず離れずの距離で控え、私に危険があれば排除する役目なのですわ。ただ……


「インクで服を汚すくらいの悪戯なのに、吹き矢で眠らせるのはやりすぎでしょう」

「悪戯で済むレベルではありません。本日は学園にロイド様がいらしてました。フローラ様のお召し物が汚れれば帰宅せざるをえなくなります。フローラ様のいらっしゃらない隙にロイド様に近づこうとする目論見ですよ」

「それは考えすぎではないかしら……?」


 このシェイド、過保護と言うか、過剰防衛というか。怪しい行動をする人間を見るや否や、先回りして吹き矢を勝手に吹いてしまうのです。

 その彼はまた唇で微笑みを作ります。


「いいえ、転ばぬ先の杖ですよ。フローラ様はやはりお優しいのですね。貴女のように優しく美しい女性が汚い連中に悪意をぶつけられるなど許されません」


 シェイドの、おそらく善意でやっている迷惑な行動をぶつけられて、こちらはとても困っているのですが……。


「あまりこういう事が続くと、私に近い距離にいる人はバタバタ倒れると言う悪い噂になってしまうかもしれませんわ」

「大丈夫です。あとで報告するつもりだったのですが、フローラ様から離れたところでも倒れてますので」

「え?」

「隣国から留学に来ている皇子がフローラ様を遠くから見つめていまして。あやつは酷く好色で、女性は目が合っただけで孕まされると噂ですので、フローラ様と目が合う前に瞼を閉じさせていただきました」

「ええええ?」


 そこまでいくと過剰防衛を通り越して被害妄想ではないかしら!? それに、もしも皇子を眠らせたのがシェイドの仕業とバレたら国際問題になってしまうのでは!?


「最近王立学園ではガス漏れが起きているせいで倒れた者がいるらしい……という噂も広めておきましたのでフローラ様のせいという事にはならないでしょう」

「……シェイド」


 私は大きくため息をつきました。正直なことを言うとやりたくはありませんが、ここはキチンと叱るべき場面ですものね。

 私がシェイドを厳しく叱ると、彼は口をへの字にして「フローラ様をお守りする為なのに……」と小さく抵抗しつつもしょんぼりと気落ちしました。その、いつもの無感情ではなく気持ちのこもった言葉に、私は彼の人間らしさを見た気がします。


「とにかく、勝手に吹き矢を吹いてはいけませんよ!」

「……」


 シェイドは無言でしたが、彼の眼鏡の奥の瞳が揺らいだ気がします。その紫色に、私は懐かしいものを感じました。

 なんだったかしら……遥か昔に見た覚えが。


「……おにい様?……」

「えっ? フローラ様、今なんと」

「あ、いえ、何でもないわ」

「……そうですか。失礼します」


 再びシェイドはしょんぼりとし、部屋を出て行きました。

 私は部屋でひとりハーブティーを飲みながら、先ほどの自分から出た言葉を反芻します。なぜおにい様なんて言ったのかしら。私の実の兄は私と同じ、象牙色の髪に翠の瞳。紫色ではありません。そもそも遥か昔の思い出と言うのも少ないはずです。私は幼少期からロイド殿下の婚約者で、未来の王子妃となる為に小さな頃から教育を受けて……


「……あ」


 ようやく、私の中で懐かしい人のかたちがぼんやりと浮かび上がります。


「僕の事はおにい様、とでも呼んでくれ」


 その少年は王宮の中庭で一緒に遊んだ時に、私とロイド殿下にそう言ったのです。宝石のような美しい紫色の瞳を優しく細めて。確か殿下と私の婚約が決まった直後の7歳頃の話で、彼はもう少しだけ年上だった気が致します。


「フローラ、僕はいずれ君たちを守る影になる。だがその時までは僕は君たちのおにい様だ」


 影になる……まさか、シェイドが? でも確かおにい様はロイド殿下と同じ王族の証である眩しい金髪をお持ちだったわ。シェイドの黒髪とは違う。

 それにロイド殿下は第一王子だから彼の実のお兄様ではない筈だけれど、そのロイド殿下に「おにい様と呼んでくれ」と言えるお立場の人が私の『影』になるなんて辻褄が合わないわ……。


 それ以上は幾ら考えても正解に辿り着けませんでした。



 ◆



 私に叱られて以降、シェイドが吹き矢を吹く回数はだいぶ減りました。


 ええ、減りました。皆無ではありません。

 困ったことに、あれからメリー男爵令嬢が手を変え品を変え私に近づいてくるのです。そしてほとんどの場合、シェイドに吹き矢で眠らされていました。


 そしてある日の夜会にて。


「フローラ・ゲティンボーブド! お前との婚約を破棄する!」


 ロイド殿下がメリー様の肩を抱き、大勢の前で婚約破棄宣言をなさった時、私はシェイドが吹き矢を吹いてしまう! と戦慄致しました。

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