また、聞こえるわね

岡村 史人(もさお)

また、聞こえるわね

「お父さん、また聞こえるわね」


母のその声で、私は読んでいた本から顔を上げた。


「ああ、聞こえるなぁ」


そう言って父は頷くが、趣味でやっているゴルフのクラブを拭く手も止めず、何事もない様子だ。


「聞こえるって、何が?」


不審に思った私が尋ねると、母はなんでもないようにこう答えた。


「二階からね、たまに足音がよく聞こえるのよ」


と。


聞こえない?そう言って母は首を傾げる。


試しに耳をそばだててみるが、当然私には何も聞こえない。


この家は当時新築で、住み始めて数ヶ月程度も経っていなかった。

そんなに簡単に家が、足音の様にギシギシと軋むというのなら、それはそれで問題だろう。


「ほらね、また」

「ああ、そうだなぁ」


そう言うと父と母は困ったように天井を見上げた。


私には何の音も聞こえなかった。


幼い頃は臆病者だった私としては、あまり不気味なことは言って欲しくはなかったのだが、新居に引っ越して来てからというもの、父と母は度々困ったような様子で件の話をしていたのを覚えている。


だが、それからしばらくして、話をするのをピタリとやめてしまった。


おそらく、そういうものだと片付けたのだろう。


たまにだが、うちの家族は全員、お化けや幽霊の類は全く信じないと豪語するのに、こうやって“奇妙な発言”をすることがあるのだ。


それから時は流れ、私が大学生になった頃の話である


母は伯母の家に遊びに行っていたから、私と父はテレビをぼんやり見ながら、兄が帰ってくるのを待っていた。

時間としては、夜九時を過ぎた頃だと思う。


ガチャ……バタン――


玄関のドアが開く音がした。

それからほんの少し間が空いてから、階段を上がっていく音がする。

兄は普段からただいまの一言も告げずに無言で部屋に行くから、そこは不自然ではなかった。


しかし、少しだけ違和感を覚えて私は顔を上げた。

足音が、妙に軽いのだ。


足取りは兄にそっくりだというのに、階段の軋みがほとんど聞こえない。

そして、彼が二階の階段を上り切った瞬間だった。


ガチャ……バタン――


再び玄関のドアが開く音がして、私は耳を疑った。

そしてまた間が空いて、階段を駆け上がっていく軽快な足音。今度は上りきったところで、スッとそのまま足音は消えてしまった。


一体何が起こったのかと、私はその場で凍りついた。

玄関から上りきったあとに、駆け下りるだけの間隔は無かった。

ドアが二回空いたということは誰かが二人入ったのだろうか?


でも、あの足音は人とは思えないほど軽かった。


扉は本当に開いたのかすらもはや怪しい。


私は恐る恐る電気をつけて、玄関や部屋を一頻り見回った。当然の如く部屋の中には誰もおらず、玄関に鍵が掛かっていて、誰かが入った形跡もない。


ダメ元で酒を飲みながらテレビを観ている父に尋ねてみる。

「父さん。今さっき玄関の扉、開かなかったかい?」

「ああ、開いたぞ?」

「…二回、開いたよね」

「開いたな」


「………」


父はどうしてこの違和感に気付かないのか?

いや、恐らく気付いててこの人は平然としているのが、何となく分かるから困るのである。


父は昔からこうである。おかしなことが起こっても、大体のことはこうして平然と、なかったことのように振舞うのだ。


恐らく若い頃から度々何かを目にしている父は、こういうことが起こる度に、口を噤んで頑なになるのだ。


これに関しては、常々聞きたい事はあったが、未だにそれ以上は聞けなかった。


父はそういうことを”全部気のせい”で済ませる人だった。


その後兄が帰ってきたのを見計らって、玄関先まで見に行ったのだが、疲れ切った様子に、一度帰って来たかはとても聞ける雰囲気ではなかった。


それから十年が経ち、すっかり忘れきった日のことである。


仕事から珍しく定時で上がることができた私は、玄関先で大きな声で、「ただいまー!」と声をかけたのだ。

すると父が驚いた顔で私のところへ駆け寄ってこう言った。


「お前…今帰ってきたのか!?」


父の話によると、十分程前にも私の「ただいま」が聞こえ、階段を上がっていく音がしたのだという。

しかし一向に降りてこない。

そんな私を不審に思い、呼びかけようとした時――玄関が開き、“本当の私”が帰ってきたというわけだ。


――アレが喋った?



いや、喋れたのか……?



十年前の事を今更のように思い出し、思わず私は背筋を凍らせる。


その場に妙な空気が流れた瞬間に父はすっと、理解したような顔でこう言った。


「まぁ、そういうこともあるだろうな……」


あるわけがない。


それからすぐに、またおかしなことが起こった。


その日は、植木屋が庭の剪定をすることになっていた。


父も兄も家をあけており、生憎その日は家に居るのは私だけであった。


本来なら、挨拶でもしていくのが筋なのだろうが……。

しかしその週は仕事が忙しく、残業続きであった。仕方なく私はその日も植木屋が来る前の早朝に出勤したのである。


残業し、クタクタになった車内でスマホを確認すると、出張先の兄からLINEが来ていた。


普段は用事もなければ、互いに連絡も取り合わない仲のため、不思議に思い開いてみる。


LINEにはこう書かれていた。


「おい、植木屋さんから聞いたけど、一日中家に居たんだって?具合でも悪かったのか?」


その日は一日中職場に居て、植木屋にも会ってはいない。


当然ながら私が帰宅した家には、誰かが居た気配などもなく――


……家の中には、一体誰が居たんだろうか?


それともまだ、居るんだろうか?



今でもたまに、

誰もいない二階から、音がする。



誰もいない筈の私の部屋から、リズムを取る誰かの音が――

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また、聞こえるわね 岡村 史人(もさお) @Fusane

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