第3話

僕の知っている最原葵は強い人間である。人としての強さには、様々な主義主張が存在するが、彼女はそのすべてを包括していた。僕はそう信じている。


 体の強さ、頭の強さ、心の強さ、経済的な強さ、取り巻く環境の強さ、遊戯の強さ、美学的センスの強さ、手先の器用さとしての強さ、観察眼の強さ、答弁の強さ、演技の迫力の強さ...ここに書き尽くそうにも白紙が足りない。それほどのあらゆる面で完全超人と言ってもいい。時代が異なれば、彼女こそレオナルドダヴィンチであっただろう。きっと、彼女なら空でも飛べたはずだ。その分、どこか常人とは異なる価値観と自己を持っており、傍から見れば変人であったことは言うまでもない。


 彼女を支えている強さは何か、それこそ彼女の本質。自己と深く繋がり合えることであったのだろう。僕は彼女がいなくなるまで気が付くことはなかった。それをこれからも知ることはないだろう。しかし、先の変人は、こう宣う。「彼女を知り、彼女をもう一度作れ。」と。


 無常にて無謀、無理難題のスパイスが入り混じった、極激辛のカレーを綺麗に収めることが出来るほど、僕の喉と胃袋は頑丈ではない。未だに先の話も呑み込めていないのだから。


 魂は命と自己のブレンドという言葉が脳裏に浮かび上がる。あの袈裟姿の不審者はなぜそのような境地にたどり着いたのか。否、僕は頭を振る。そのようなことを今考える理由は特にない。仮に彼の過去を知り、その過程を知っても、おそらく結果は変わらずのまま。


 彼女を知ったとき、あの男の真偽は択一される。生死を司る不審者と、世迷いごとを宣う不審者に。


 そして、それを確かめることが出来るのは僕だけである。この帝鳳にて(おそらく)最もかかわりの深かった僕。そして、不審者の言葉に心を動かされた僕。


 であるならば、彼女が残した新聞部に当てていた時間ぐらい、彼女を知ることに当ててもいいだろう。あまりものの時間に、後付けの意味を与えることを時間つぶしという。僕の行動はまさにそれである。彼女がいなくなった不毛な時間に、なんでもいいから埋める理由付け。それがもういない彼女を知ることになるとは皮肉なものだ。


 何でもない時間に、彼女のペンが紙を弾く音、連続するタイピング、写真を切り裂くカッターの断裂に耳を傾けることが出来た徒費の日々こそが、意味のあることであったのだ。人はいつも無くさなければその重要に気が付けない、と思われがちだ。しかし、おそらくそれは違う。


  失われた時間に、後付けの理由を付け加えるから、さながら大事であると錯覚するのだ。僕はそのことに理解はしながらも、部屋のクローゼットの片隅に住まう怪物と、流れていく時間を横目に息を吸う。


「さて、やるか。」


 自分を鼓舞するように、目の前の段ボール箱に目を向ける。1Lの部屋のクローゼットには、冬を待ちわびているトレンチコートや、春に靡かせたカーディガンなどが収納されている。僕は服をあまり買うタイプではない。切ることさえできればいいとは考えている。しかし、あまりにも同じような服を連続してきていては、自身の沽券に関わる。スティーブジョブズのように同じ服を何着も持つような無駄を省いたファッションスタイルには、強い憧れはあるものの、それは圧倒的な背景ありきのものである。僕のような凡人がおいそれと真似てみたところで、刺される後ろ指が増えていくだけである。ただでさえ彼女といた新聞部は腫物であったのだから。


 そう、僕は今正に失われた時間に、さらなる意味を与えようとしている。現代の時間に、ではなくその過去の時間に。


 僕の目の前にある段ボールは1つと半分ほど。びっしりと詰められたその箱の中身は、未だに色褪せることはなかった。少しはたいて付きまとう誇りを落とせば、まだまだ文字を読むことは可能である。


 彼は、彼女の魂が新聞に込められていると話していた。魂を削り出して執筆し、生み出したそれは彼女自身と表現できる。つまり、目の前に広がるこれが彼女である。命を欠いた魂の分体。彼女の自己そのもの。


 その中から新聞を一枚、無造作に手に取る。寄れた紙、インクと湿気で重みが増した薄灰色。その悪露と同じく情報にも曇りがかかっていないことを信じながら、折りたたまれた新聞を一枚手に取り、指でなぞる。


「.......久しぶりだな。この感覚も。」


  指にインクが付いていないことを確認しながら、自分もいざ知らずのうちにほろりと口の端からこぼれる。哀愁とか憐憫とか、そんな懐古の意味とかもないけれど、後付けされた意味とともに、過去を振り返れば、確かに彼女の姿が見えんとした。


 指でふとなぞった文字を、次は目でなぞる、そうすれば、在りし日の彼女に会えたような気がする。そこに会った日常が、脳内の映画館で再上映する。そこにいるのは、自分ひとり。彼女と同時に見れればな、と女々しい感情が零れた。


 雨を売った少女が、にこやかに笑っている。


 

「東宮司少年、君、今日も暇だろう?」


 屈託もない笑顔で、人の純白にて幸福の時間に、土足で足跡を刻もうとする彼女は、長方形に並んだ長机に足をドカッと乗せている。


 人間、どうしようもないことに直面すると、ごたごたと混濁する事情と状況とは裏腹に、自然と頭が透き通る。たくさんの事象の中から取捨選択を繰り返すことで、脳が状況の整理のせんとする防衛本能だ。僕は今、その自分の脳が備え付けの本置ぬに従順な下僕のように従っている。息を小刻みに吐き出し、揺れる視界を正しながら、彼女に問いかける。


「何ですか、この状況は。」


 僕は長机をどんと叩く。いや、実際には長机の上に置かれた書類の山である。そのはずみでひらひらと何枚か地に落ちた。


 四方に足を延ばす長机は、勤勉なる学徒が日々の鍛錬である勉学に精を出したり、学んだものを確認しあったり、時には意見をぶつけ合うために用意されたものであるのは疑いようもない事実。しかし、その曇りのない現実というキャンバスにぶちまけられているのは、数多の書類の山である。これでは、教科書を開くことはおろか、ペンを握る手を置く場所もない。


「そう興奮しなくてもいじゃないか。たかが一学生運動に対す抗議文と警告状と意見文と...」


 明らかに過積載の紙の束をわしゃわしゃと音を立てながら彼女は手にした紙面を詠みあげては手から離していく。地球の重力に従って落ちていく紙を眺めながら、自分の涙袋からも同じように重力に従って落ちんとする何かをぎゅっと引き絞りながら、呆れたため息を代わりに吐き出す。幾分かましになった。


「そのうち来年になったら、また督促状とかもこの山の中に埋もれそうですね。大切な紙と大切じゃない紙はきちんと分けておいてくださいよ。この中じゃ見つけるの大変ですから。」


「ああ、またその辺に入ってるんじゃないか?知らんけどね。」


ふはは、と不敵に笑う彼女は、名家最原家のお嬢である。そんな彼女にも督促状は届くのか、とひっそりと心の中で笑みがこぼれる。実家ではなくマンションの一室を購入し、そこから通学しているそうだが、そこもまた改装も家賃もお高いことで名を馳せる南山の高層マンションである。そのような場所にも危ない色をした督促状が届くのか、と。


 「いや、そんな重要な書類、家から持ってこないでくださいよ。また僕があなたに首輪つけて払いに行く羽目になるんですから。」


 有り余るお金を持つ潤沢な家計でありながら、投資、株などの鐘の流れに敏感な彼女は、個人でも多額の税金を納める立場にある。これまではどうしていたかは知らないが、去年、知り合って間もないというのに、いきなりそれを見せてきた時は驚いた。彼女曰く、「貴重なサンプルだ。危険度によって文体が変わる特殊な条文を確認できるのは、期限ぎりぎりまで貯めた勇者の特権だぞ。ありがたく思え。」


 サンプル、とは、彼女が新聞を作る際、文字を綴る際の参考資料としての意味である。より多く、より多様な文字の文体に触れることで、表現方法が多様化するという概念は一応の理屈はわかる。


 その有用性を理解しながらも思わず、僕は誇張ではなく目が飛び出た。なんて色をした封筒だ。これは一目でわかるやばい奴。なぜなら、その封筒はゲーム専用PCの如く色とりどりであったのだから。


 そんな爛々とした目で新聞部の部室を叩いた彼女の首を縄をかける思いで引っ張り出し、腕を噛まれながらも支払いを共に済ました。その額は地塩分と合わさって多額に膨れていたが、当の本人はどこ吹く風であったのが印象に残っている。その代わりかわいらしくほほを膨らませていた。「貴重なサンプルが亡くなった。」と子供の用に駄々をこねる。


「それよりも、貴重なおかねがたくさん飛んだことの方が駄々をこねる理由としてまっとうな気がしますよ。あの紙を回収されたことの何がそんなに悔しいんですか。」と尋ねてみれば、「お金なんて、どうでもいいんだよ。重要なのはあの紙の方だ。」彼女は人差し指をくるくると回し、まるで何かの教授であるかのような素振りで続ける。


 「機械的な文章でも、あそこまで重要な書類ともなれば、多少なりとも、テンプレートを作った人間の感情の露呈するだろう。彼若しくは彼女の理解できないものまで手を出した人間に、どのような言葉で以てその重要性を伝えるのかに、日々悩み苦悩しただろう。その過程を楽しむことが出来るのは、あそこまで督促状を進化させた奴だけだ。」


 その時は不可思議なことを言う線の合うだな、としか感情は揺れ動かなかった。


 そんな過去に思いを馳せながら、自らの振り下ろした衝撃で床からこぼれた紙に手を伸ばし、それらを手に取る。僕ら新聞部に対する抗議文、クレームの羅列、こねくり回した詭弁の果てなどを横目に流していくうちに、ある一つの封筒が目に留まる。


「これは...」


 僕は封筒の宛名部分に目を配らせる。そこには目の前で鼻歌交じりに散らばる紙の内容を精読する彼女、最原葵様へと丁寧な文字で書いてある。しかし、封筒を折り返しても、そのあて名は見つからない。


 自分と相手の宛先を書かずに手紙を出したということは、彼女の家に直接届けていたのだろうか。そんな考えをしていると、彼女の方から「ああ、初めて来たな。やっぱり匿名性を担保することで、人と話すハードルは一気に下がるっていうのは、どうやら本当みたいだ。」


 てこてこと彼女は無邪気に歩み寄ってきた。


「いや、なんですか、コレ。最原さんの家からまたサンプルとして持ってきた奴ですか。」


「違う、違う。」と彼女は手を顔の前で振った。「これは最近、新しく設置した匿名型お悩み相談箱」だよ。新聞を貼り出しているところの横にひっそりと立て勝てておいたんだ。」


 そう言って彼女は、僕のいた場所からさして遠くない、右角の机の下から白い直方体の箱をポンと音を立てて机の上に置く。四つ角と辺を金属の型のようなもので覆っており、サイドには横開きするためのトリガーとなる鍵穴がちょこんとのぞく。相談箱、というあいまいなものではなく、どちらかと言えば頑強な投票箱を連想させる。


「そんなもの置いていたら、苦情という名のラブレターが大量に届きますよ。最原さん、モテるんだから。そういう方向では。」


「言うねえ。まあ否定するほどのことじゃないな。実際に増えたし、苦情。」


「ああ。」僕はどこか得心がいった。「だからこんないつにもまして余計な神が多いんですね。いったいその箱、いくつ設置したんですか。」


 あー、と目線をどこか遠くにずらす。そしてその表情が戻ってきた時、彼女ははにかんで「忘れた。各校舎一箱は必ずおいているけど、管理側の人間に回収されたやつもあるかもしれない。少なくとも、ここにあるやつは全部ではないな。」


 彼女は視線を机の方に向ける。大量の紙で隠れていたが、足元や机の上に何個か相談箱が置いてあった。


「でも見て見ろよ、コレ。いつもの短い抗議文みたいに敵対するようなことはなく、ご丁寧に私に向かって長文を送り付けてくれているんだ。文通でもしようかというほど、私はこの人間に好感度が上がっている。」


そう言って彼女は僕の手から封筒を奪うとる。乱雑極まりないな、と僕は心の片隅でぼやく。


 「淡白な理屈如きじゃ私の心は決して動かないけどなぁ。」と、屈託もない笑顔で喜ぶ彼女は、ステップでも踏みそうな勢いである。実際にそのようなことはせず、椅子の上で足をパタパタとさせる程度にとどめているのは、僕がまだ回収していない、彼女の机の下にある紙を傷つけないようとした無意識の行動であろう。そして僕は彼女の認識とそぐわない行動をしているという自覚もないわけではない。


「ちなみに、その相談箱って何か議題とかアンケートとかはあったんですか。」


 振る振ると彼女はかぶりを振る。


「いんにゃ、ないよ。指定はしない。大学の講義じゃないんだ。日常のありふれたことでいい。何気ない気持ちを吐き出したいとき、それでも吐き出し場所がわからなかったとき、不思議なことに気が付いた時、それの真相を知りたくなった時...紙を通じて疎通したい。そんな思いの寄りべとならんかなって思ってね。」


 正直、僕は彼女に対する見方が若干動いたのを感じた。


 彼女の紙と言葉に対する情熱は嘘ではなかったらしい、と。


「あと、それでまた私に新聞を書かせてほしい。私が生んだ新聞に、また言葉で殴りかかるような抗議文を送り返してほしいな。」


 恍惚とした表情で、彼女は量の腕で以て体を包み込む。


 なるほど、この人は一風変わったドエムなのかもしれない。言葉でしか興奮冷めやらむ、ドエム。


「まあ、いいや。初めて来た長文、読んでみてくださいよ。」


 僕はそのような現実から目を背けるように、彼女に続きを促した。早くこの人の熱が冷めてくれることを願う。


 






 


 






 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

神様のメモ用紙 バター醤油 @butter-soyA

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る