15 中学のプール授業以来
さて、世の中はすっかり夏になっていた。
ぽてとはよくフローリングに落ちている。犬というのは暑いと「落ちている」ものだ。それでも元気に毎日1時間散歩しているので家族全員ヘトヘトである。
最近叔父さんは俺や妹にもぽてとの散歩を任せてくれるようになった。ときどき「そっちにはいきたくねーんだよ」と主張して反抗したり「あめとかおれにはかんけーねーし」と雨の中かっぱなしで散歩したがったりしているが、それでもまあ概ね平和だ。
ぽてとはどうだっていい。いやよくないけど、どちらかというとどうでもいい。
妹は毎日のように穂希さんとダンジョンに潜って頑張っている。配信の収益や戦利品の売却でちょっとずつ武器や装備品を更新したり、穂希さんと流行りのスイーツを食べたり、とても若い女の子らしいことをしている。
穂希さんは相変わらず我が家に居候している。一人暮らしだって経済が許すだろうに我が家にいるのは、どうやら穂希さんが一人暮らしをしたい、と宣言したら「ばあや」みたいなお手伝いさんを連れていくなら許す、と言われたらしいのだ。
もちろんそのばあやさんは穂希さんの一挙手一投足を調べてご実家に報告するミッションを帯びている。そしてばあやさんは食事を3食つくり洗濯掃除をし買い物に付き添うのである。
それでは若い女の子の想像する楽しい一人暮らしではない、そもそも一人暮らしでないので、我が家の居候でいることにしたらしい。居候といっても空き部屋を使ってちゃんと生活費を出しているのだから事実上の下宿だ。
叔父さんは「いやあ、分不相応に広い家建てといてよかった」と口癖のように言っている。確かに叔父さんは結婚しないまま中年になった。なんでこんなに広い家を建てたのだろうか。
叔父さんは編集者さんと話し合って爆誕した小説「あのころ僕らはダンジョンに憧れていた」を書き上げて、いまはゲラをやっているところだ。
ボヤイターでは「枠練庵先生の新刊が出るぞ」とざわついている。「枠練庵」というのは叔父さんのペンネームだ。もちろん叔父さんは熱狂的なワグネリアンである。書斎にはいつもワーグナーの楽劇が鳴り響く。
◇◇◇◇
さて、俺はというと。
すっかり愉快な「ライヴダンジョン社公式ボヤイターの中の人」として認識され、毎日せっせとボヤ廃をやっている。
みー先輩とえがそー先輩も元気だ。いちどみー先輩のお気に入りの日本酒バーに飲みに連れていってもらった。ずいぶん夜遅くに帰ることになったが、そこは家族も理解していてみんな寝ていた。結果日本酒というのはえらくおいしいものだと分かった。次の日二日酔いで死にかけたわけだが……。
ある日会社の上のほうから連絡があって、「そろそろ超ダンジョンフェスのプログラムをまとめてほしい」と言われた。
超ダンジョンフェスはいわば「ファン感謝デー」とか「俳優祭」とか「将棋の日」みたいなイベントであるらしい。ダンジョン配信者がシロウトコントをやったり歌ったり、会場にダンジョンの魔物の標本を展示したり、ダンジョンをイメージしたメニューを提供するキッチンカーが出たり、トークのコーナーがあったりする。毎年冬の初めに何万人も動員するすごいイベントだそうだ。
「毎年だけどこれは頑張んないとねー。ライヴダンジョン社の威信をかけた一大イベントだもん」
みー先輩が真面目な顔をしている。天変地異の前ぶれだろうか。
やらねばならないことはたくさんあった。配信者たちからの出し物の順番を決めるとか、臨時のスタッフをどれくらい雇うか話し合うとか、テレビのダンジョンフォーカスの公開収録が入る時間を決めるとか……とにかく8月からあとの毎日は忙しく、定時で帰るのがちょっと難しくなった。
まあほとんどの仕事は去年と同じものを使い回せばいいはずなのだが、超ダンジョンフェスは開催を重ねるごとにイベントの規模が拡大し来場者が増えていて、前任者の残した仕事の使い回しだけでなんとかできるわけではない。
みー先輩もえがそー先輩も大真面目だ。ボヤイターの公式中の人としての活動もしつつそういう仕事をがんばるうちに、ずいぶんクタクタで家に帰ってきていることに気付いた。
◇◇◇◇
「どしたのおにーちゃん。顔色悪いよ。唇真っ青」
「……え?」
鏡を見てみる。本当に唇が真っ青だ。こんなの中学のプール授業以来だ。
「大丈夫ですか、健斗さん」
穂希さんにまで心配されてしまった。
「あー……」
きょうは久しぶりに早く帰ってこられたので、ぽてとを散歩に連れていってたっぷり遊んでやろうと思ったのだが、これはちょっとあったかくして休んでいたほうがいいかもしれない。ライヴダンジョン社のビルはコンピュータがたくさん並んでいる関係で冷房がいささか強いのだ。きっとそれで体が冷えてしまったのだろう。
「まあ紅茶でも飲んで休みたまえよ」
叔父さんがいただきものの紅茶の缶を取り出した。あっという間にあっついミルクティーが沸かされ、砂糖がドバドバァと投入される。
紅茶を飲んででっかいため息をつく。
「最近忙しそうにしていたから疲れていたんじゃないのかい? 仕事が追い込みで忙しいんだろう? どうしても休みは取れないのかい?」
確かにここ2週間ほど、ほとんど休日出勤していた。
「ええ、まあ……でも休んだら迷惑ですしねえ。休みたいのはやまやまではあるんですけど」
「そこは同じ部署の人に訊いてみるといいと思うよ。新人を使い潰そうとは思ってないんじゃないかな」
そうなのかな。
みー先輩とえがそー先輩とのグループチャットに、「体調がすぐれないんですけど、休みをとるのは無理ですよね?」と連絡してみる。
すぐみー先輩から返事がきた。
「具合悪いときはちゃんと休むのがしごでき社会人だよ あした休むって上に伝えとくね」
えがそー先輩からも返信がきた。
「無理せず休んでください、前任者が仕事できないマンだったので2人でも回ります」
ありがたや……! というわけであした1日だけ休ませてもらうことにした。(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます