018.「仕組まれた舞台は、手のひらの上に」





 


 ――途切れていた通信が、ようやく回復した。


 


 かすかな震動とともに、ショウのポケットでスマートフォンが再接続を示す。


 その小さなディスプレイに浮かぶ“再起動完了”の文字は、灰の煙に包まれた現場で、唯一と言っていい明るい兆しだった。


  民警たちが各所で負傷者の救助を進め、混乱の波がわずかに落ち着きを見せ始めたころ――



 ショウの胸ポケットで、端末が再び微かな振動を発した。



 (……連絡通路、指定されてる。クラヴツォフ伍長の位置……東側経由、第三ブロックか)


 


 画面には見慣れたマップアプリのオーバーレイに、暗号化されたデータリンクが重ねられている。

 通信帯域は不安定ながらも、少しずつ正常化の兆しを見せていた。


 ショウはそれを確認すると、すぐ隣に立つトラフィムに顔を向けた。



 「クラヴツォフ伍長が、東側から再編中。連絡通路を使って、合流地点を指定してきた」




 トラフィムは静かに頷いた。

 ショウの表情を一瞥し、彼もすぐに状況を理解していた。




 「ここにいたって仕方ねぇ。動こう、まだ終わっちゃいない」



 小さく息をつくショウの背で、端末が小さく音を鳴らした。


 クラヴツォフから送られてきた位置情報。合流予定地点は、市街東端の連絡通路入り口。ここから徒歩で約十二分の距離だった。



 だが、今の街は地図通りには動けない。


 倒壊したビル、浮き上がった歩道、規制線と瓦礫が交差する中での移動は、慎重に経路を見極めなければならなかった。


 


 「……ヴィタリーとラチェスタは?」


 


 トラフィムが振り返ると、少し離れた瓦礫の陰で、ヴィタリーが片膝をついていた。


 脇腹に包帯を巻かれた彼は、ラチェスタの支えを借りながら、かろうじて立ち上がっていた。




 「……悪い、ちょっと動けそうにねぇ」




 そう言いながらも、ヴィタリーは苦笑を浮かべていた。




 「おまえら、行ってこい。こっちはこいつと一緒に、まだやれることやってる」


 「……気をつけろ。なにが残ってるかわからねぇからな」




 言葉少なに、ふたりは頷き合う。

 そして、再び瓦礫の都市を、東へと駆け出した。




 目指す先――その地下には、獣の気配が、息を潜めて待ち構えていた。








 都市の東端――本来ならば車両通行用の高架下を抜け、鉄路沿いに延びる細い通路があった。


 だが今、その通路はかつての形を残していなかった。


 


 「……想像以上に、やられてるな」


 

 ショウの声が、かすれた呼気に紛れる。焦げついたコンクリートの壁、炭化した地面。爆風の痕跡があちこちに生々しく残っていた。



 「高層ビル群から流された瓦礫、ここまで来てんのか。地形ごと動いてやがる」



 トラフィムが辺りを見回す。落下した梁が通路を塞ぎ、その隙間を縫うように、彼らは慎重に進んでいった。


 


 「クラヴツォフ伍長の指示だと、この先――交差橋の下が集合地点だ」


 「よし、急ごう。これ以上、仕掛けが起きねぇうちにな」


 


 足元に砕けたガラスと鉄屑が散らばる。ふたりはすれ違うように身を伏せ、外壁の陰に身体を滑り込ませる。


 周囲は静かすぎるほどに沈黙していた。救助の声も、車の音も、もうほとんど聞こえない。


 まるで、この一帯だけが取り残されたかのように――


 


 (違う。……狙って、切り離されてる)


 


 ショウの背筋がわずかに震える。見えない罠が、確かにここにも潜んでいる。


 そのときだった。




 「……止まれ」




 前方の影から、低く張った声が響いた。

 次の瞬間、ショウとトラフィムの足が揃って止まる。


 通路の奥――わずかに開けた空間。その中に、長身の影がひとつ立っていた。

 コートの裾を揺らし、無言のままこちらを見据える男。

 右腕には、民警の証たる腕章。そして背後には、装備を整えた二人の隊員。



 「……クラヴツォフ伍長」



 トラフィムが静かに言うと、男は頷いた。




 「アヴェリン訓練生、マルカヴィッチ訓練生。指定時刻より少し遅れたな」


 「状況が……」


 「言い訳は不要だ。到着した、それで充分だ」




 伍長の声は落ち着いていたが、眼差しには明らかな警戒と緊張が混じっていた。




 「この先、地下接続路を通じて市庁舎方面への迂回が可能だ。ただし、通路は半壊。敵性工作の残留も確認されている」


 「つまり、“生きてる”可能性があるってことですね」


 「そういうことだ、アヴェリン訓練生」


 


 伍長が軽く顎で後方を示すと、ひとりの隊員が小さな端末を差し出した。

 それには、地下構造の簡易マップと、既に通行不能となったルートの一覧が表示されていた。




 「ここを突破できれば、事件の起点――信号制御棟まで一気に行ける。奴らの中枢があるとすれば、そこだ」


 


 クラヴツォフの口調に、わずかな怒気が滲んでいた。

 この街を、彼の部下を、そして市民たちを蹂躙した“何か”への、静かな怒り。




 「突入の判断は私が行う。お前たちは後衛、状況次第で前方支援に回れ。いいな?」


 「了解です」


 「了解」



 ふたりの返事を受け、クラヴツォフは頷いた。



 「……行くぞ」




 動き出す靴音が、コンクリートの床に反響する。

 彼らが向かうのは、いまだ正体の見えない“犯人”が仕掛けた、最奥の牙城。



 それは、この街の“機能”そのものを乗っ取り、混乱と死をばらまく中枢だった。









 信号制御棟へと続く地下通路は、通気口からの風がほとんど届かず、湿った土と鉄の匂いが漂っていた。

 電源供給の断たれた蛍光灯の下で、犬班の隊員たちは小型ライトを頼りに慎重に歩を進めている。




 「ここ、元々は市庁舎の非常導線だろ?」


 


 ショウが、小声でトラフィムに囁いた。


 トラフィムは頷きながら、壁面に刻まれたプレートを指でなぞる。


 


 「非常時の避難ルート。構造上、上層階と信号統制フロアに直結してる。……逆に言えば、今は封鎖されていて当然の場所だ」


 「そんな場所が、こうして開いているってことは…… 連中が通った、ってわけだ」


 


 隊列の先頭を行くクラヴツォフ伍長が、立ち止まり手を挙げた。

 その動作ひとつで、全員が瞬時に静止する。



 「火薬の残り香に、薬品……それと、焦げた空気の匂い。人工的だな」



 伍長の言葉に、トラフィムとショウも鼻を利かせる。

 確かに空気には、焦げたような臭気と、湿った血のような金属臭が混じっていた。




 「空間制御のトラップじゃない……これは、化学物質の散布だ」


 「ガスか…… 総員、マスクを装着しろ!」


 


 即座に、全員が携行のマスクを装着する。

 クラヴツォフが後方にいた副官に目配せすると、彼は小型の検知器を壁に取り付け、数秒後に表示を確認した。




 「神経系作動剤の可能性あり。拡散範囲は限定的、遮断用フィルターで対応可能です」


 「ならば続行する。マルカヴィッチ、後衛を確認しろ」


 「了解」


 


 通路を抜けると、階段が上階へと続いていた。

 そこを上がれば、目的の信号統制フロアがあるはずだった。


 しかし、階段の中段――不自然な鉄製の板が、立てかけられるように設置されている。


 


 「これは……」


 


 クラヴツォフが前に出て確認するが、その表面に触れた途端、奥の壁面から電子音が響いた。


 


 『……侵入者、確認。制御区域への接触を遮断……』



 


 無機質な音声とともに、床下で何かが作動する感覚があった。



 「っ、クソ、罠だ! 総員、退避!」



 クラヴツォフの叫びに合わせて、全員が咄嗟に階段を駆け下りる。




 次の瞬間、階段上部で閃光と共に爆発――








 熱波が吹き抜け、壁が抉れる。


 ショウはショックで後ろによろめいたトラフィムの腕を引き、すぐ傍の遮蔽板の陰に引き込んだ。



 「っ、大丈夫か!?」


 「平気だ! 助かった!」




 粉塵の中、クラヴツォフが手を挙げて部下たちの無事を確認していく。



 「この通路は封鎖されてるな。奴ら……あらかじめ逃走路を塞いで、我々を“止める”ための導線を作ってやがる」


 「どこかに、まだ別の入口があるはずだ……!」


 



 そのとき、後衛の隊員が小声で呼びかけた。




 「伍長、南通気孔からの迂回路がマップに記載されています。元々は保守員用のアクセスルートです」


 「よし。そこへ回る。警戒態勢のまま再編隊。……目的は、あくまで信号制御棟の中枢だ」




 クラヴツォフの判断に従い、一同は再び動き出す。

 その背後――砕けた鉄片の奥で、わずかに瞬く赤い監視灯が、彼らを見つめていた。


 


 その“視線”の主は、まだ姿を見せぬまま、笑っている。


 



 ヴァシリー・マルカヴィッチ。


 仕掛けた罠、仕組まれた舞台。

 すべてが“演目”の最終幕へと向かっていた。

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