フユは雪を降らせてくれない

はすかい 眞

フユは雪を降らせてくれない

 海風は、乾季でも常に湿度を帯びていて生ぬるかった。

 吹き荒れる風で髪がてんでばらばらに暴れる。秦野はだのふ頭の端に立って無表情に海を眺めていた津村つむらフユは、細い指には似合わない力強い仕草で長い髪を押さえた。

 天気は快晴で、海の奥で遥か昔のビルの残骸が霞んで見える。ふ頭からではわからないが、澄んだ空気とは裏腹に海は大荒れらしかった。

 十二月は、こんな天気になることがたまにあり、ここまで荒れると出航許可は下りない。

 今日仕事の予定を入れていた同業者たちは、倉庫に着いてから不許可と聞いてすごすごと帰宅したのだろう。

 もっとも、荒れるという予報は二、三日前から出ていたわけで、そんな日に仕事を入れている奴らが悪いとも思う。

 フユは、この日は毎年仕事の予定を入れないようにしていた。

 誕生日だが、記憶があるわけでもなく、自分の生まれた日だという思い入れはない。

 ただ、今日はフユの母親の命日でもあった。

 フユの母親はフユが生まれて数時間後に命を落としていた。フユという名前が、母親から唯一与えられたものだった。

 生前の母親の希望どおり、遺灰は日本海の真ん中に撒かれた。墓はない。こうしてふ頭に来て、海を眺めることが墓参りの代わりだった。

 毎日の仕事と変わらない光景を見ながら、顔も知らない母親のことを思う。

 母親は秦野ではなく日本海側の出身だった。

 乾季の日本海は、波が常にうねり、白い泡を立てて互いにぶつかりあっては砕け、複雑な潮の流れを作り出すのだと、母親の弟である叔父からよく聞いたものだった。

 フユはその猛々しい海を自分の目で見たことはなかったが、同業者の噂でポッドのコントロールが全くきかないと聞いたことがあった。

 叔父の話によると、母親はそんな海が好きだったらしい。

 本当であれば、母親がいる日本海を墓代わりに眺めるべきかもしれない。だが、母親を想う者はフユ以外残されていなかったし、フユにもそこまでの感傷はなかった。

 視線を落として、足もとを見る。

 波は音を立てて迫り来て、消波ブロックに吸収される。それからさあっと引いて、また同じ動きを繰り返す。

 一定のリズムを保つふ頭の海と、母親が見ていた日本海は全く別ものだろう。

 だが、海は繋がっているからこそ海であり、いかに個々の場所で違う顔を見せようとも、その大量の水は循環して、同じところに辿り着く。

 今フユが見ている、消波ブロックの間に消えていく波も、いつかは日本海に沈む母親の遺灰を躍らせた波かもしれなかった。

 海は、フユを会うことができなかった母親とつなぐものだった。

 仕事中に見る海とは違って、ふ頭から見る海は細かな水の粒が見える。波が寄せて来るたびに見えるそのきらめきを見ていると、決まってフユは自分の名前のことを思い出す。

 フユの名前は、昔の季節の名称から来ていると叔父は言っていた。

 その季節「冬」を実際に知っている人を探そうと思うと、五代は遡らないといけない。母親も、もちろん冬を知らない世代だった。

 冬は、時期で言うとちょうど今頃、十二月から二月頃までを指していたようで、乾季よりは随分短い。だが、冬があった頃は冬の前に秋、冬の後に春、春と秋の間に夏という風に季節が四つあったそうなので、一年間の割合としては妥当かもしれなかった。

 昔の気候は今とはかなり違っていて、冬というのは寒かったらしい。

 確かに乾季は雨季より多少涼しいが、それでも日中には人間が活動できる気温を超える。寒いというのはにわかには信じられなかった。

 日本海側の地域は特に寒く、冬になると雪というものが降ったそうだ。水が凝固したものではあるが、氷とはまた違う。粒がごく小さいときに凝固するので一つ一つが小さな結晶を成して、それが結晶のまま大量に降ったとか。

 言葉では想像が全くつかない代物だが、フユは写真で見たことがある。雪を人工的に作って降らせている施設で遊ぶ、幼い母親の写真だった。

 自分によく似た顔のその子どもは、雪で真っ白な背景の中、満面の笑みを浮かべていた。

 叔父の話によると、母親は雪をいたく気に入り、頻繁にその施設に遊びに行っていたらしい。

 そして、フユの名前の話に戻る。

 雪が気に入った母親は、雪が降る季節、すなわち冬に憧憬を抱き、名前をフユに残した。雪の清廉さを冬に重ね、清廉な子どもに育ってほしいという願いも込められていた。

 フユは海を見ながら、毎年この話を思い出す。

 今日は、自分が生まれた日。そして母親が死んだ日。

 母親を殺してしまった日。

 自分が生まれなければ、母親が死ななかったかもしれない日。

 コンクリートにぶつかって細かな水しぶきを上げる波を見つめる。あれくらいの粒が冷却されると雪になるのだろうか。自分の心の冷たさなら凍らせることはできるかもしれないが、綺麗な結晶にはならないだろう。

 生まれたときから母親を殺しているのだ。清廉な雪を降らせる心なんて期待できるわけがなかった。

 フユは海を見ながら、心の中で母親に謝罪する。

 ごめんね、雪は降らせられない。でも、俺はこのまま生きていく。

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フユは雪を降らせてくれない はすかい 眞 @makoto_hasukai

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