未完成シンフォニー

咲楽月香

Section1.Overture

Part1.泡沫

 団欒の場と思われるリビングにいた。ここはどこかの家庭のようだ。そこで誰かが急に立ち上がる。見た感じ高校生くらいの青年のようだ。するとそんな彼に対して女性が少し驚いたように言った。


「……り?」


「お兄ちゃん?」


 どうやら目の前にいる者は兄らしい。なぜか名前の部分は分からない。だがわずかな間の後に突然、真顔で目の前で何かを振るわれる。その途端、胸の辺りに鋭い刺激が走った。


「うっ……!」


 少年は突然のことにバランスを崩して椅子から落ちてしまう。床に思い切り体を打ちつけ、思わず息が苦しくなる。鋭利なもので抉られたであろう胸元に激痛が走り、慣れない痛みに思わず胸元を見ると胸元からはとめどなく鮮血が溢れ出し、床に滴り落ちていた。


「お兄ちゃん……!ねえ、何?何したの」


「……痛いだろ」


 ドスの効いた低い声で吐き捨てられた言葉は青年のものだ。だが、その年齢には似つかわしくない冷酷な声。床に崩れ落ち、血の流れる胸元を押さえながら、驚いた顔で相手の方を見たが、出血のせいか相手の顔はモヤがかかっているかのようにくぐもっていた。


「……ん……!」


 青年に向かって何かを叫ぶ男性の声。声質的には中年と思われるが、誰かを呼んだのだろうか?肝心の名前の部分を上手く聞き取ることができなかった。掠れている視界の中で禍々しく変色した左手を見てさらに驚き、掠れた声で尋ねた。


「……ねえ、何、その手……?なんでそんな風に……なってるの?」


「あなた……何を……!」


 少年の声変わりしたばかりのその声に重なるように母親と思わしき女性が悲痛な声を上げる。


「……!お前、なんだ、その手は……!まさか、その手でずっと……を弾いていたのか……?」


 叫ぶ声は父親と思わしき男性のもののようだ。だが妙に声が途切れる。彼は何かを弾いていたらしいが、肝心な名前の部分や一部の音が歪んで聞こえる。


 しかしこちらを何かで攻撃した相手は禍々しく変色した謎の刃物を片手に大股で歩み寄る。血らしきものはそこから垂れている。となればそれで少年を攻撃したのだろうか。分からない。


「……はっ、羨ましいよな」


「え?」


 こちらに対しての感情なんて一切込めていない低い声。青年は冷酷な目で見下ろして睨みつけ、やがて大声で怒鳴った。


「以前言ったことを覚えているか?お前、前に俺に……憧れてって言ってたよな?」


「う…………」


 こちらの話など聞いてくれないほど感情が高ぶっていたのだろう。直後に青年の凄まじい怒鳴り声が響いた。


「よくもまあ、そんな才能に恵まれているお前が俺に向かってそんなこと言えるよな」


「……」


「才能がない俺を笑っているのか?」


「……違う、違うよ……!」

 少年は胸元に走る激痛に耐えながら必死に首を横に振る。才能がない?何のことだろうか。だが、床はおそらく自分の身体から溢れている大量の血で真っ赤に染まっていた。何かを青年に伝えようとするものの、出血のせいだろうか。それとも、それ以外で何か理由があるからだろうか。

 

 徐々に意識が混濁し始め、床に座り込んでいるのか視界が低い。肩を支えていた男性がいきなりのことに呆然として立ち尽くしていた女性に叫ぶ。


「……ん……!血が……!……っ、救急車を頼む!」


「……ええ!……っ、繋がらない……!」


 すると女性は慌てて携帯電話を取り出し、救急車を呼ぼうとするがなかなか繋がらないのか、何回もかけ直しているようだ。


「……。何があったの?」


 携帯を耳に当てながらも泣きそうな声で女性が泣きながら尋ねる。自分が怪我をしている緊迫した状況。そんな状況なのに、目の前にいる人物は堰を切ったように怒りと憎しみを込めた声で言い放った。


「あー……どいつもこいつも無知で腹が立つ……!徹夜してまで……をやっていた理由……それは、お前を超えるためだ!」


「こえる……?なんのこと……?」


 何が起きているのか、なぜこのようなことになっているのか意味が分からず、呆然と呟いた。やはり弾いていたものは必ず音が消えている。すると自分の肩を支えていた男性が相手に向かって怒鳴る。


「……!なぜ急に……に当たるんだ!高校で何かあったのか!」


 男性の声はやはり何故か途切れ途切れではっきり聞こえない。すると、青年は少しの沈黙の後、急に真顔になって言った。


「なんで言わなきゃいけないの?」


「……」


「……やっと繋がった!……ら……ぎです!ちょっとゴタゴタがあって……はい、息子が血塗れで……!救急車お願いします!お手数お掛けします、失礼します!」


 息子?ということはこの人はやはり母親なのだろうか。男女の悲鳴とそれを淡々と切り捨てる青年の声が聞こえるが、相変わらずはっきりとは聞こえない。


「……ことの意味なんてあんた達が知る必要あるの?必要ないよね?これは俺の問題だ。ほっといてよ」


「なら……」


 男性の言葉が遮られ、感情が高ぶっている青年が再び声を荒らげた。


「こいつが!凡才の俺に憧れているとか言うから!こいつは俺の努力を何も分かっていない!徹夜も!この手も!俺はこいつを超えるために自分の時間全てを捧げてきたんだ!……なんで誰も……分かってくれないんだ……!なんで比べるんだ……!」


「……まさか徹夜って私達に認めて欲しい……そういうことだったの……?」


「違うんだ……比べ……」


「うるさい……うるさい!」


 女性の泣きそうな声と自分を咎める男性の声に痺れを切らしたのか、そもそも声が届いてないのか、青年は男性の声を遮って怒り狂った声を上げ、刃物を振るって部屋を破壊していき、それを見た男性の怒鳴り声と女性の悲痛な叫び声が響く。


「やめろ……!おい、しっかりしろ!……!」


「やめて、やめて!」


「……ち……」


 何かを言いかけた途端、叫ぶ男性の声と救急車と思われるけたたましいサイレンは遠のく。それと入れ替わる形で耳からは音楽が流れ、意識が少しずつ泡沫へと溶けていき現実と夢の境目が分からなくなっていく。リビングらしきところで聞こえてくる声が遠のき、音楽の方がはっきりしてきた。


 やがて視界が部屋ではなく黒くなった途端、何かの拍子に頭が下に傾いたのか何かの角に頭が強くぶつかり、ごん、と鈍い音が響いた。


「……うっ……いった……ん?」


 突然頭を襲った痛みと衝撃に十代後半ほどの少年の目が開いた。寝起きでぼやけた視界に琥珀色のもみあげとキャリーケースが映る。


「あれ、キャリーケース……?えっと今のは……さっきの人は?」


 キャリーケースにぶつけた頭を押さえたまま、辺りを見渡す少年の名は清水健斗だった。やや癖のある琥珀色の髪に蘇芳色の瞳。色白の肌に細身の身体。そして顔立ちは端正ながら中性的で、十代後半にしてはどこか幼い雰囲気がある。健斗がいた場所は血塗れの部屋ではなく、新幹線の中だった。だが、夢から覚めた後も胸騒ぎは収まる気配はない。


「はぁ……夢か。胸騒ぎがするけど、何なんだろ」


 健斗は寝起きでぼんやりとした頭で溜息をついた後、ぽつりと呟き、新幹線の窓枠に頬杖をついて夢の内容を思い返す。夢にしてはあまりにも生々しい上に妙に現実的で、不愉快な感触だった。


「今のって……よくわからないけど、嫌な夢だったな……」


 四月の上旬のある日の昼間。冬は眠り続けていた桜の蕾が開き始め、春と新生活の始まりを告げる日だった。どこか変な感触のある胸元を軽く押さえながら、健斗はそう呟いた。

 

 乗客の出入りを尻目に車内放送を聞きながら、健斗が頬杖をついたまま今度は視界を窓に移した途端、夕陽に照らされて流れゆく景色が凄まじい速度で視界に飛び込んでくる中、イヤホンから聞こえてくるクラシック音楽越しに次の駅の到着を告げる車内放送が聞こえてきた。


『間もなく――――。お出口――――』


 ああ、そうか。寝ていてすっかり忘れかけていたが、自分は新幹線に乗って転校先の学校がある街へ向かっていたのだ。軽く伸びをした後、車内の電光掲示板を見る。


「あ……まだなんだ」


 呟きながら背もたれにもたれかかる。目的地まではまだ時間がかかるようだった。乗り換えを済ませ、ようやく乗った新幹線だが、片道四時間はやはり長く感じる。うたた寝をしないように、そして今度は先ほどのような嫌な夢を見ないように、バッグの中からペットボトルを取り出してキャップを開け、中に入っていたコーヒーを一杯飲んだ後に大きく身体を伸ばし一呼吸置いた直後に、突然胸元が傷んだ。


「……!」


 胸元を押さえ、健斗は肩で息をする。息が詰まり、呼吸すらできないような痛さだった。


「……っ……くっ……」


 呼吸が苦しい。あの夢のせいだろうか。しばらく肩で荒い呼吸をしていると、やがて胸の痛みは止まり、痛みが収まったと同時に深く溜息をついた。実は健斗の胸元には大きな切り傷があった。いつ、どこでどのようについたか全く分からない荒々しい切り傷。しかもかなり深い傷跡だった。


 しかし、健斗の記憶は小学六年生の冬を境にそれ以前の記憶は全くない。ただ健斗という名前だけ覚えていた。何らかの理由で入院していて、ある日病院で目が覚めたら、叔母の小織の元に引き取られることになったといきなり言われ、関東から中国地方に住む叔母の元に引越したのだ。それ以降は特に変哲のない生活を送っていたが、高校二年になる直前に理由も分からないまま叔母から故郷にいるある人物に呼ばれているから戻ってほしいと言われたのだ。


「……」


 健斗は見知らぬ傷跡の残る胸元を服越しに握り締める。おそらく記憶がないあの日より前につけられたものなのだろうが、この傷は何なのか、一体どのようにしてつけられたものなのか。なぜ過去の記憶がほとんどないのか。記憶がないことはあの夢が何か関係しているのか。どれもこれも全く分からない。


「……なんだったんだ……」


 一人呟く。新生活を迎えるには丁度いい春の暖気にはあまりにも不釣り合いな不穏な夢に寒気と胸騒ぎを覚えながら、健斗は先程の夢とまだ残る胸の痛み、そして息苦しさを誤魔化すかのように窓の景色を見ているとイヤホン越しにアナウンスが聞こえてきた。


『間もなく――――』


「……ここか」


 健斗は席から立ち上がって新幹線から下りる。そして切符を改札口の機械に通して駅の外に出ると、都会特有のビルだらけの光景と、人混みと喧騒が彼を出迎えた。


「……」


 叔母によるとこの駅は健斗の故郷らしいが、彼の記憶には全くない。そして駅から出た健斗は、キャリーケースを引いてスマートフォンでナビを見ながら転校先の学校の寮へと続く住宅街への道を歩き出した。


 健斗が住宅街に入った途端、時間が止まったように駅前の喧騒が嘘のような静けさが辺りを包み込み、住宅街の中を健斗が引くキャリーケースのローラーが転がる音が響く。すると静かな住宅街の中を数名の小学生の男の子が戯れ合いながらすごい勢いで走り去っていき、部活帰りであろう二人組の女子中学生が楽しそうに話して去っていった。


 その声が通り過ぎると住宅街は再び静かになった。しばらく歩いていると、道路の隅に男性が呆然と立っていた。少しくらい微動してもいいのに、全く動く気配がない。通りがかりに顔を少しだけ見てみたが、表情はなく、まるで魂を抜き取られたかのようだった。


「……っ」


 その光景に背筋が凍りつくような気配と謎の胸騒ぎを感じ、健斗は無言で足早に歩いてその男性の横を通り過ぎていった。そしてしばらく歩いていると一際大きな建物が健斗の視界に入り、その建物の扉には星慧学園高等部学生寮、と書いてあった。ここが健斗の目的地だった。


「……」


 健斗はイヤホンをしまい、スマートフォンの音楽プレーヤーを止めて無言で扉に手をかけて入るとそこには誰もいなかった。しかしテーブルの上には『清水健斗 様』と書かれた封筒が律儀に置いてあり、健斗が封筒を開けると二階の空き部屋を使うように、と書いてあった。


「二階……あそこの階段かな?」


 視界の端には階段がある。そしてキャリーバッグを持ち上げて階段を上がり、指定された部屋に入ると綺麗に整頓された部屋が姿を見せる。


「仕事が早いな……」


 風呂に入ってすっきりした後、健斗はベッドに入りそのまま眠りにつくのだった。

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未完成シンフォニー 咲楽月香 @Tsukika_Sakura

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