部屋のなかは暗く、案の定、兄はまだ寝ているようだ。蒼が「ねえ、起きて」と何度か声をかけると、やっと掠れた声で応えた。


「……なに?」

「引っ越し屋さんが、大人のサインがいるんだって」

「あー……、なんかガタガタしてたの、それか。行くわ」


 蒼がなにも言わないから、兄はすべて順調だと思っているのだろう。気楽そうな口ぶりだった。ここ二日、兄はほとんど出かけていて、蒼が眠っていないことも知らないのだ。


 兄が確認書にサインをすると、作業員たちは愛想よく頭を下げ、引き上げていった。

 蒼は兄の隣で、一緒に彼らを見送った。

 玄関のドアが閉まる。

 並んで立つと身長差がありすぎて、蒼には兄の表情がよく見えなかった。迷いながらも「いましかない」と思った。

 いま言わないと、きっとまた兄は出かけてしまう。


「あの、立て続けに悪いんだけど……。延長コードあったら、ほしくて」

「あー」兄は蒼にくるりと背を向けた。「まえに使ってたのが、俺のクローゼットにあるかも。探してみ? 勝手に見ていいよ」


 一瞬どきりとした。自分はなにかまずいことを言っただろうか? 蒼はその場から動けず、兄の動きを目で追った。彼はそのままキッチンに行き、換気扇を回した。低い音が、ごお、と響く。大きな手で煙草を取り出す。――どうやら、ただ寝起きの一服が吸いたかっただけのようだ。


 兄が煙を吐く。

 蒼もつられて息を吐いた。

 一瞬視線が合った。兄は赤いパッケージを振った。


「なに、お前も吸いたい?」

「――ううん」

「俺、その歳なら、もう吸ってたなあ」兄はくわえ煙草で蒼の部屋を覗き込んだ。「荷物はこれで全部?」

「うん」

「ふうん。意外と少ないな。いるものあったら、引き出しの『生活費』遠慮なく使えよ」

「……うん」


 兄は吸い終わると「じゃあな」と言ってやっぱり今日も出かけていった。

 寝ているところを起され、あれこれ頼まれた兄は、気分を害してなかったか。兄の口調や態度から機嫌を読み取ろうとしても、蒼にはうまくできなかった。

 まだ兄の人となりが掴めていないのだ。

 他人のような距離感がある。


 それなのに、リビングなどの共用部分を超えて、兄の私的な空間に立ち入り、持ち物まで確認する羽目になってしまった。

 よその家、だれかの部屋、あからさまな生活感。蒼はそれらを避けてきた。どうしてみんな、そんなに友だちの家に遊びに行くのが楽しいのだろう。

 

 ――俺のクローゼットにあるかも。探してみ? 

 ――引き出しの「生活費」遠慮なく使えよ。


 兄は気軽に言うが、蒼にとってはどちらも気が引けることだった。兄の部屋を探すのも、引き出しの金を使うのもだ。

 どちらがましかといえば前者だろうか。

 自分でも理由はよくわからない。

 よくわからないものに必要なのは、蓋をすることだ。蒼はずっとそうやってきた。きっとこれからも。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る