3
部屋のなかは暗く、案の定、兄はまだ寝ているようだ。蒼が「ねえ、起きて」と何度か声をかけると、やっと掠れた声で応えた。
「……なに?」
「引っ越し屋さんが、大人のサインがいるんだって」
「あー……、なんかガタガタしてたの、それか。行くわ」
蒼がなにも言わないから、兄はすべて順調だと思っているのだろう。気楽そうな口ぶりだった。ここ二日、兄はほとんど出かけていて、蒼が眠っていないことも知らないのだ。
兄が確認書にサインをすると、作業員たちは愛想よく頭を下げ、引き上げていった。
蒼は兄の隣で、一緒に彼らを見送った。
玄関のドアが閉まる。
並んで立つと身長差がありすぎて、蒼には兄の表情がよく見えなかった。迷いながらも「いましかない」と思った。
いま言わないと、きっとまた兄は出かけてしまう。
「あの、立て続けに悪いんだけど……。延長コードあったら、ほしくて」
「あー」兄は蒼にくるりと背を向けた。「まえに使ってたのが、俺のクローゼットにあるかも。探してみ? 勝手に見ていいよ」
一瞬どきりとした。自分はなにかまずいことを言っただろうか? 蒼はその場から動けず、兄の動きを目で追った。彼はそのままキッチンに行き、換気扇を回した。低い音が、ごお、と響く。大きな手で煙草を取り出す。――どうやら、ただ寝起きの一服が吸いたかっただけのようだ。
兄が煙を吐く。
蒼もつられて息を吐いた。
一瞬視線が合った。兄は赤いパッケージを振った。
「なに、お前も吸いたい?」
「――ううん」
「俺、その歳なら、もう吸ってたなあ」兄はくわえ煙草で蒼の部屋を覗き込んだ。「荷物はこれで全部?」
「うん」
「ふうん。意外と少ないな。いるものあったら、引き出しの『生活費』遠慮なく使えよ」
「……うん」
兄は吸い終わると「じゃあな」と言ってやっぱり今日も出かけていった。
寝ているところを起され、あれこれ頼まれた兄は、気分を害してなかったか。兄の口調や態度から機嫌を読み取ろうとしても、蒼にはうまくできなかった。
まだ兄の人となりが掴めていないのだ。
他人のような距離感がある。
それなのに、リビングなどの共用部分を超えて、兄の私的な空間に立ち入り、持ち物まで確認する羽目になってしまった。
よその家、だれかの部屋、あからさまな生活感。蒼はそれらを避けてきた。どうしてみんな、そんなに友だちの家に遊びに行くのが楽しいのだろう。
――俺のクローゼットにあるかも。探してみ?
――引き出しの「生活費」遠慮なく使えよ。
兄は気軽に言うが、蒼にとってはどちらも気が引けることだった。兄の部屋を探すのも、引き出しの金を使うのもだ。
どちらがましかといえば前者だろうか。
自分でも理由はよくわからない。
よくわからないものに必要なのは、蓋をすることだ。蒼はずっとそうやってきた。きっとこれからも。
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