凶刃の黒依
眼下で都が燃えていた。有機物も無機物も区別なく、炎は目につくものを片端から貪っていく。
望みが叶ったとき、自分は快哉でも叫ぶかと思っていた。どうもそうではなかったらしい。今胸に去来するのはただ無だけである。
「くだらねえな……」
実際口にしたところで、何も変わらない。彼にとって、無価値で無意味な人間が何人死のうが、もう心動かされるものは何もなかった。
保原陽輝が戦死したとの報を受けたとき、流殞は聞き返した後、それが事実だとわかると途端に発狂した。
手近にあったものを投げつけ、テーブルにあったものをなぎ倒し、椅子を蹴飛ばしながら、血を吐き、それがまき散らされることも構わず、ただ赴くままに破壊を繰り返した。
すでに瀕死の病人である流殞ができることなどたかがしれている。被害はほぼ皆無で、流殞は疲れ果てて、ベッドの上に座り込んだ。
虚ろな目をして、しばらくうつむいていた流殞だったが、やがて目には怒りの業火が宿り始めていた。
許せなかった。密約を破った白鴉と、密約などに頼った自分自身が。
だから、復讐を決意した。都を焼く手順を一部変えたのだ。本来なら晦人軍が脆弱な南西の角を攻め込む直前に、都の各所に月岡衆が仕掛けた地雷に火をつけ、白鴉らを支援するというものだったのだが、晦人軍が入京し、略奪している最中に一斉点火してやったのだ。
そのとき、白鴉はちょうど内裏に押しかけ、今まさに銀鉤の仇である晃仁を討とうとしていたのだ。白鴉が槍を持ち替えた瞬間、内裏の床下に仕掛けた地雷が発火し、その直上にいた晃仁を一瞬で気化させてしまったのである。
近くにいた白鴉はかろうじて難を逃れたものの、仇を失ったことと突然火に囲まれたことで、どこに怒りをぶつければ良いかわからずに、ただ吠えているところに臣下が現れ、都からの退却を促した。
戦略上の目的をとりあえずは果たしたことで、諾した白鴉だったが、撤退しようにも都はすでに火の海だった。かろうじて北西の一角だけはまだ火に包まれておらず、彼らはそこに向かったが、逃げる人々でごった返し、加えて晦人が現れたことで、恐慌状態に陥った。
と、そこで狙いすましたかのように地雷が爆発して、逃げる人々を地獄の釜の底へと連れて行ってしまった。
ここでも虎口を脱した白鴉は、爆発の衝撃で破壊された門と城壁の隙間からかろうじて脱出しできたが、郊外に逃げられたのはわずか数百だった。
これら一連の出来事が人為的だったことから、白鴉はすぐに背後に流殞の存在を疑った。
「おのれ、予を謀ったか、流殞! 貴様だけは絶対に許さぬ! 地の果てまで探し出して、貴様の首、必ずや予自らねじ切ってくれるわ!」
「だとしたら、早くなさることです。わたしの命の炎が消えてしまう前に」
流殞の耳に白鴉の怒号が聞こえたわけではない。死を前にして、五感を超越した何かに感応した流殞の独白だった。
白鴉に流殞の独語が届いたかどうかはわからないが、彼女は残兵をまとめ、それでも王としての誇りを見失わず、整然と南へと去って行った。
これから長い再建事業が始まる。もしかしたら、永遠に万朶の民の数は戻らないかもしれない。
皮肉的なことに、流殞は当初自らが求められた役割である晦人の殲滅という目的を果たしていたのである。もう今となってはどうでもいいことだ。陽輝の仇を討ったわけでもないのだから。流殞は心に住まう陽輝に語りかけた。
「陽輝様は死ぬのが恐ろしくなかったのですか?」
「こえーに決まってんだろ。あんときだって、足めっちゃ震えてたっての」
「なら、なぜ死に急ぐようなまねをなされたのです?」
「だって、ほら、おれ、勇者じゃん? だったら、ちっとは頑張らねえとな」
回想の中にいる陽輝は実に誇らしげに笑っていた。それだけにもの悲しい。
「勇者が死んじゃだめだろ……せっかくこの世界の王様にしてやろうと思ったのに」
流殞の計画は何度か修正されている。当初は自らの怒りのまま、眞人に対し、裁きの鉄槌を振り下ろしてやろうと思ったのだが、陽輝がこの世界に呼ばれてからはその計画に修正が加えられた。
すべてを知った陽輝が穂叢の前で悪の巨魁である流殞を打ち倒すというものだ。陽輝は新時代の王となり、穂叢は齋送者をこの世界に招くことの愚かしさと許しがたさを知るだろう。
こうして、流殞の復讐は完全に果たされるはずだった。
しかし、すべてが水泡に帰した。
陽輝を都合の良い人間に仕立て上げたつもりだったが、最後の最後になって、流殞の手を脱し、彼は勇者たる道を選んだ。
絶望的な敵を前にして、なお果敢に挑んだ陽輝の名は千古に刻まれたことだろう。この世界の英雄として。陽輝が残した一瞬の閃光は人々の胸の中で永遠に生き続けるのだ。
そんなものは詭弁に過ぎない。何よりも流殞がそれを痛感していた。生きていればこそ、なせることがある。死しては何もならないではないか。
流殞の目から悔恨の涙が頬に一筋の線をつける。まだ涙など流せる水分が残っていたかと、少し驚いたが、余韻に浸っている暇はなかった。
ずっと機会をうかがっていたのだろう、流殞の背後に潜んでいた黒依はいつまで経っても、望んだような状況にならないことに焦れて、ついに飛び出してきたのである。もはや流殞の首を落とす。それ以外に彼女ができることは何もなく、その先に続く未来もなかった。それだけに周囲の状況がわからなかった。
黒依の目には流殞の首が切り落とされた瞬間を映していた。
それが錯覚に過ぎないと知ったのは、自分が宙に浮いたまま、一向に着地しないことに気づいたからだ。
あと少しで彼女の刃は流殞の首を切り落とした、いや、切っ先はその肌をかすかに突いていたのだ。
黒依の四肢には何本もの縄が絡みついている。それが彼女の行動の自由を妨げていたのである。
周囲にはいつの間にか月岡衆が現れていた。源吾が流殞にそっと耳打ちした。流殞は何度か頷くと、ようやく黒依の存在に気づいたかのように彼女に対した。
変わり果てた流殞の姿を見たとき、黒依は喉の奥で小さく悲鳴を上げていた。それが自分の声だとも知らず、ただ流殞を凝視する。
いつも後ろになでつけていた髪を下ろしたから雰囲気が違うなどという単純なことではない。人の形をした虚無が相対している。黒依は始めて恐怖という感情を覚えた。白鴉に組み敷かれたときも、流殞に捨てられたときにもなかった感情である。
流殞のふりをした無は長い前髪から覗く金色に光る目を向け、偽りの優しさをもって、動けない黒依の頬をなでた。
「悪かったなあ、黒依。おまえの夢は叶えてやれそうにない。まあ、おれの夢も全部消えちまったし、これでおあいこみたいなもんだろ?」
「だ、誰なの、あんたは? 旦那様をどこにやったのよ?」
「つれないことを言うなよ。おれだよ、おれ。あれだけおれたち愛し合ったじゃねえかよ。忘れてんなら、思い出させてやるよ」
そう言うと、流殞は黒依の首に手を回し、彼女の唇を自分のそれで塞いだ。口の中に広がる死の味に抗しようと、首を振って、離れようとするも、腹部に押し当てられたより直接的な死の感触が黒依の動きを止めた。
流殞は唇を離すと、かつての不敵さを取り戻したかのように薄く笑った。
「じゃあな、黒依。どうせおれも後から行くんだ。言いたいことがあるならそこで聞いてやるよ」
続く発砲音と鋭く、熱い痛みが黒依を貫いた。流殞は六発の銃弾を撃ったが、的中したのは最初の一発だけで、二発目は黒依の脇腹をかすめ、それ以降は大地にかすかな爪痕をつけただけだ。
もう流殞には銃撃時の反動を抑えるだけの力もなくなっていたのである。
それでも黒依が受けた傷は即死しないだけで、十分致命的だった。彼女を拘束していた縄が解かれると、膝から崩れたかと思うと、足を折り曲げたまま、背中から倒れた。
黒依は今までどんな任務や訓練において、大きなけがを負ったことはない。それ故に痛みに耐性がないから、ただもがき、苦しんだ。
月岡衆に名を連ねながら、無様な最期を遂げようとしている同胞に蔑みの眼差しを向けつつ、源吾は流殞に黒依の処遇を尋ねた。
「どうしますか? わたしがとどめを刺しておきましょうか?」
「いや、さすがに源吾さんの手を同胞の血で汚したくはないですよ。このまま放っておきましょう。どうせすぐ死ぬ」
流殞は黒依の傍に跪き、懐から瓶のようなものを取り出し、その横に置いた。
源吾を含め、月岡衆の誰もがそれを毒薬と思い込んでいた。黒依の苦痛を取り除いてやろうとのせめてもの心遣いだと。
しかも、流殞が苦痛に耐えかねたときに使おうと思っていた毒を分け与えたのだとも、錯覚し、まだ人間味を残している月岡衆は主人の慈悲深さと、すでに常人ならば耐えられない苦しさに弱音一つはかないことに感銘すら受けていたのだ。
脈打つたびに傷口から血が流れ、ここを怪我を負っているのだという自己主張の激しい痛みが黒依を襲っている。
痛みにあらがいつつも、黒依は流殞が置いた瓶を見た。黒依も中身は知らないが、羅喉国から帰ってきたときに流殞が手元に持っていたもので、大事に扱っていたから、興味を持ったのだ。
「これがおまえにくれてやれる最後の褒美だ。だから、もう邪魔すんなよ」
黒依は確かに見た。今、見えている流殞はかつての彼のものだった。そこに手を伸ばそうとするも、流殞はすげなく立ち上がると、黒依から離れた。
丘の下から月岡衆以外の誰かが上がってくる。
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