病床の流殞

 陽輝無事の報を聞き、流殞は病床で会心の叫びを上げた後、激しくむせ込んだ。すぐに手を押さえたものの、赤黒い飛沫は白いシーツにいびつな水玉を作る。


 ここ一ヶ月ほどで、流殞の病状はさらに悪化した。


 医者の見立てだと、結核菌は喉頭や腸にも病巣を作り、それに伴う胸膜炎と髄膜炎を併発しているという。保ってあと二ヶ月。それが流殞に残された時間だった。


「旦那様、大丈夫ですか? 今新しいシーツをお持ちします」


「ああ、気にしないで、鬼一きいち君」


 流殞はかいがいしく世話をする鬼一という少年に笑いかけた。口元に血がついているので、普通の少年だったら、ひるみ上がったであろうが、そこは月岡衆、しかも源吾の息子であるから、肝は据わっている。


 手早く血のついたシーツを剥ぎ、すかさず新しいものと替える。手際の良さはおそらく父親以上かもしれない。


「それと、わたしの世話をするときはちゃんとマスクか、布で口を覆わないとだめですよ。君に移ったら、父上に申し訳が立たない」


「お気遣いありがとうございます。でも、ぼくだったら、大丈夫です。なんせ、風邪一つひいたことないですから」


「そういう問題じゃないんだけど……」


 どうやら鬼一は結核を風邪の延長のようなものと捉えているのかもしれない。純粋すぎるが故の無知というものを憎んできた流殞だが、鬼一のようなものには好感を覚えていた。


「まあ、それはともかく、源吾さんはまだ帰ってきてませんか?」


「はい、あ、今戻ってきたようです」


 流殞には何も感じなかったが、鬼一の鍛えられた感覚は父の帰宅を捉えていたのだろう。実際、その数秒後、源吾が流殞の寝室に現れた。


「ただいま戻りました、旦那様。お加減はどうですか?」


「ああ、いつもよりはずっといいですよ。鬼一君の世話がいいからかもしれません」


「それはようございました。何か失礼なことをしてないかと、内心気が気でなかったのですが」


 そう言いつつも、源吾の顔には息子を誇る親馬鹿の層がうっすらと表れている。流殞はそれを微笑ましく思った。


 ついに誰かと結ばれることもなかったが、この世界に根を下ろし、愛する人と結婚し、親子で語らうなどという未来もあったかもしれない。多少の羨望と後悔が胸を刺す。


 だが、今更引き返せない。ここまで来てしまったのだ。ならば、最後まで走り通すしかないではないか。流殞は気を引き締めて、源吾に首尾を訪ねた。源吾は小さく頷き、現状を報告した。


「都の『結界』、すべて貼り終えてございます。後は旦那様のご指示のみでございます」


「そうですか。ああ……ようやくここまで来たか。長かったなあ。あと少し……あと少しだ」


「はい。ですので、今はお休みください。養生なさることが、旦那様には必要です」


「わかりました。しばらく眠ります。でも、その前に源吾さんにすべて終わった後のことについて、計画書をしたためたので確認してもらいたいのですが」


「拝見いたします」


 計画書を読み進めていく内に源吾の眉間がかすかに縦皺が寄った。


「旦那様はこれでよろしいのですか?」


「わたしがいなくなった後、何がどうなろうとわたしの知ったことじゃありませんからね。それと書き忘れたのですが、わたしの資産はすべて月岡衆に譲ります。まあ、国家がなくなった後で金銭とか必要なくなるかもしれなくなるかもしれませんので、今のうちに食料などを蓄えておいたほうがいいと思いますよ」


「かしこまりました。数々のご温情、誠にかたじけなく存じます」


 源吾は深々と頭を下げた。鬼一もつられて同じように頭を下げる。彼らは流殞に挨拶して、そのまま退出しようとしたが、ふと源吾が立ち止まって、また戻ってきた。何かを聞きたそうにしていたので、流殞はどうぞと促した。


「それでは、お聞きします。旦那様はこの国の連中のありようを正そうと、今回の計画を遂行したわけですが、なぜ我らもその中に入っていなかったのですか?」


「ああ、それなら理由が二つあるんです。一つはあなた方を倒す方法がついに見つからなかったんです」


「確か旦那様は晦人の王と懇意になったと聞きましたが、その王の力を借りれば良かったのではないのでしょうか? 王の力が黒依をも凌ぐのならば、我らに抗する手段となると思うのですが」


「あの方を利用するなんて、無理ですよ。ちょっと原理の外側にいるようなお方ですから。この北の彼方まで攻め上ってくれただけでも御の字です」


「さようでしたか。ならば、もう一つの理由は何でしょう?」


「これを言うのは多少恥ずかしいのですが、まあ、先もないことですし、言っておきますね。実はわたしとあなた方は同志だと思っていたんです。世に捨てられ、忘れ去られたもの同士、世界をひっくり返してやろうじゃないかってね」


 流殞の告白に源吾は何も答えられなかった。口をへの字に曲げ、目を見開く様はまるで怒りに震えているようだが、実のところ、感激のあまり声が出なかったのである。源吾は口元を震わせながら、深呼吸を数度繰り返し、再び流殞に向かって頭を下げた。


「この逆風源吾、我らが『同志』の悲願を果たすため、粉骨砕身して事に当たることを誓いまする」


「ええ、お願いします」


 流殞は透き通るような笑顔を浮かべた後、意識を失って、ベッドに倒れ込んだ。頭を打ってはならぬと鬼一がとっさに身体を支え、事なきを得た。鬼一は流殞の身体を横たえ、シーツをかぶせると、振り返って、父に尋ねた。


「旦那様はかように優しい方なのに、どうして『こんなこと』をするのでしょう?」


「優しい方だからこそ、この世界の度しがたさが許せぬのよ。覚えておけ、鬼一よ。我らはそんな世界に牙を立てることをしなかった、いや、考えすらなかった。生きながら、死んでいる幽鬼のような存在だったのだ。そんな我らに命を与えてくださったのが旦那様なのだ。ならばこそ、おれは月岡衆の一人として、旦那様を支えたいと思っている」


「はい。ぼくもです、父上」


 流殞の意識があったら、照れくさくてベッドの上で身もだえするような親子の会話の外側で、計画にずれが生じてきていることに彼らもまだ気づいていない。

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