黒依の妬心

 肆之原商事本店の玄関ホールで十商を見送った流殞は踵を返して、自らの執務室へと赴こうとしたとき、不意に受付嬢が彼を呼び止めた。その様子がただならなかったので、流殞は足を止め、駆け寄ってくる受付嬢を待った。


「お呼び立てして申し訳ありません、社長」


「かまいません。それで、そんなに息せき切って、何かありました?」


「はい。三十分ほど前、勇者さまと姫巫女さまたちがいらっしゃいまして、社長は不在と断ったのですが、勇者さまは社長に話が通っているとの一点張りでそのまま行ってしまわれました」


「ああ、なるほど。たしかにいつでもお越しいただいてもかまわないと、言った記憶があります。伝えなかったわたしの責任です。迷惑かけて、申し訳ありません」


「い、いえいえ、とんでもありません! わたしのほうこそ、到らずに……」


 まさか社長直々に謝罪されるとは思っていなかった受付嬢は残像が見えるくらい慌てて、手を振った。顔を赤らめて、却って恐縮しているのが面倒だったので、流殞は彼女の罪悪感を薄れさせるために一計を案じた。


「迷惑ついでと言っては何ですが、勇者さまにお茶とお菓子を出していただけませんか? あなたの職務ではないとは思うのですが、そこを枉げてお願いします」


「あ、それでしたら、その……差し出がましいと思ったのですが、わたしが休憩中に食べようと思ってたプリンをお出ししました。ちょうど二個あったので。あ、でも、わたし、勇者さまと姫巫女さまの好みわからないのに、あんなのをお出ししてよかったのかどうか」


 今になって、雲上人とも言うべき存在に礼を失したのではないかと思い返しているらしい受付嬢の顔が赤くなったり、青くなったりするさまを見て、流殞はつい噴き出した。今回の件に、受付嬢の責任は一切なく、連絡を怠った流殞に一方的な過失がある。


 ゆえに責める気はないのだが、この受付嬢は独断と過誤を責められるのを承知の上で、自ら考え、行動したことに対しては、むしろ賞賛に値するだろう。部下を褒めて伸ばす性質である流殞は賞賛の言葉を惜しんだことはなく、自身の判断にいまだ迷っているらしい受付嬢に対して、助け船を出す意味でも、即座に対応した。


「大丈夫ですよ。あなたの対応のおかげで勇者さまに粗相をせずにすんだこと、感謝します。ああ、それと、少ないですが、立て替えてもらったお菓子代、受け取ってください」


 流殞は財布から紙幣をすべて抜き出し、受付嬢に渡した。何気なく受け取った受付嬢は紙幣に書かれた数字とその枚数を見て、最初は呆然としていたが、意味がわかるにつれ、目と口が開いていく。これだけあれば、彼女の念願であった棚一列まとめ買いができるばかりか、その店の商品を買い占め、なおかつおつりが来る。


 さすがに受け取れないと慌てて突っ返そうとする受付嬢の手を押さえ、流殞は首を振る。


「功績があれば、これを賞するのは当然のことです。これはあなたのですよ。いずれ、ちゃんと表彰するので、まずはこれだけ納めておいてください」


 流殞の声はとりわけ厳しいものでもなければ、険しいものでもなかったが、これ以上受付嬢に反論を許さないだけの力があり、彼女は大金を胸元に抱えたまま、去って行く最高責任者の後ろ姿を目で追うしかなかった。


 十商が訪れ、去る前まで「整備中」だった蒸気式エレベータもどうやら点検が終わったようで、流殞はすかさず専用エレベータに乗り込み、最上階のボタンを押した。


 流殞が知っているものより遙かに緩慢な動きで柵のようなシャッターが閉まると、これまた鈍重に上へと上がっていく。胃が持ち上がるような浮遊感が一瞬の不快感をもたらすも、背中を壁に預け、目を閉じ、ごく短時間の一人きりの時間を楽しもうとした。


 ただ、これまでの経験からそうはならないことも知っていたので、不快感は持続したままだ。その証拠に狭い室内なのに、どこからか嘲弄にも似た小さな笑い声が宙を漂う。


「ずいぶんと気前がよろしいことで。あたしのことももう少し気にかけてくれるとうれしいのだけど」


「おまえが気がかりじゃなかったことなんて、一度もねえよ。だいたいな、もう少し気にかけてくれってのは俺の科白だ」


 苦々しい表情と声音を隠しもせず、流殞はどこかにいるであろう黒依に声をかけた。


 彼女は幼くして「隠形の術」を身につけ、今や目の前に居ながらにして、相手に視認させることができない域まで術を昇華していた。


 おそらくこの室内のどこかにいて、腕を振り回せば、どこかに当たりそうなものだが、一度それをやった結果、腕をとられて、関節が逆にどこまで曲がるかという人体実験の具にされたことがあるため、今更流殞も黒依がどこにいるのか、もはや閉じたまぶたをわずかたりとも開けようともしない。


「あら、世界で最も旦那様のことを気にかけてるのは、あたしだと自負しているのだけど?」


 聞き捨てならない言葉に、流殞は舌打ちしかけたが、懸命の力でそれを押しとどめ、「そうだな」と適当に相づちを返して、言葉を濁した。


 これ以上、黒依との会話を続けても、いや、黒依との会話自体に益がないのだから、精神衛生観念的にも続ける必要などどこにもない。


 しかし、静寂の時間はわずか数秒しかない短命だった。感慨にふけるまもなく、鈍い音とともにエレベータは最上階に到着し、重々しいきしみをあげながら、扉が開いた。エレベータのすぐ前が社長室だ。流殞は入室する前に、ついてきたであろう黒依に釘を刺す。


「黒依、少し外せ」


「どうして? あたしと旦那様は一心同体も同じなのに? それとも『昔の女』とあたしを会わせたくないのかしら?」


 黒依の揶揄は冗談で済まされる範囲を逸脱していた。流殞は瞳に苛烈な光を湛えて、虚空を睨めつけた。奇しくも流殞の視線の先には黒依がいた。故意か、偶然かを確かめるまもなく、流殞が普段抑えている体内の黒く、よどんだ炎が口から漏れ出した。


「黙れ。てめえ、いつからおれの正妻面して、意見できるほど偉くなった? 勘違いすんなよ。てめえはおれの道具だ。使い捨てのな」


 流殞は直接的な表現で他者を攻撃するのを好まない。それは無能の証明であると考えているからであるが、今の彼には自らの信条を顧みるだけの余裕はなかった。


 真赭穂叢の名前は、一言では言い表せない感情とともに心中の深奥に刻印されている。だからこそ、不用意に触れれば、いとも簡単に発火し、流殞の平静さを奪っていくのだ。


 一方で、流殞が秘めていたどす黒い溶岩流を浴びた黒依は当意即妙を旨とする彼女にそぐわず、ただ唖然とそこに突っ立っていた。


 面罵されたからひるむようなたまでもなければ、主人の不興を被って、怖じ気づくほどのかわいさもない黒依の胸中に去来した感情は「飼い犬に手を噛まれて、驚いた」というほうが近いかもしれない。


 そして、自身の内側に流殞を侮る気持ちがあったことに、さらに驚愕した。殺人を単なる作業としか捉えていない黒依にとって、流殞とは初めて明確な殺意を持って対する相手であり、歪んだ愛情を向けるものだった。それだけに流殞という存在を特別視しているはずだったが、いつしか馴れ合いになり、慢心していたようだ。


 黒依自身が自覚していなかった驕りを流殞は見透かし、あえて強い調子で叱責したのだろうか。


 流殞にしてみれば、諸悪の根源でもある穂叢に対して、複雑な感情があり、そこを戯れに触れられたことに対して、激怒したという可能性が高いが、「昔の女」とやらに対抗意識を燃やす黒依はそうとは受け取らなかった。


 黒依は頬を伝うものを手の甲で拭った。それが涙なのか、冷や汗なのか、彼女にはわからない。


 もはや黒依には興味がないといわんばかりに背を向け、自らの執務室に入っていく流殞の背中を見ながら、彼女は独りごちた。


「ひどい旦那様……だからこそ、愛おしくて……壊したい」


 扉に遮られて、見えない流殞の首筋を締めるかのように、黒依は両腕を伸ばす。もちろん届くはずもないが、すでに彼女の瞳は現実を映しておらず、妄想の世界へと遊離していた。その中で流殞は苦悶の表情を浮かべ、息絶える都度、黒依の全身に性的快感にも似た電流が奔り、艶めかしい嬌声が口から漏れた。


 こんな状態でも隠形の術を崩さないのは感歎するほかないが、それでも時折わずかに崩れるようで何もない空間からあえぎ声が聞こえて、その場に誰かいたら、瞬く間に社内に怪談話が流れただろう。

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