第3話-①

 ゲームのスタートが正式にいつからと言うことは伝えられていなかったが、梨璃子はあと数分で深夜0時を迎える時計を、そわそわと落ち着かない気持ちで見つめていた。


(別に今日からって言ってなかったけど、準備だけはしといた方がいいよね?)


 実際にゲームで何をさせられるかなどさっぱり想像もつかなかったが、梨璃子は動きやすいようにと学校指定のえんじに二本ラインのジャージに着替え、髪の毛も顔横の短く切りそろえた部分以外は高い位置で一つにくくっていた。まるで体育の授業前のような姿で神妙な顔をして自室で座っている姿は我ながら滑稽であったが、何事もまずは形からと言い聞かせその時を待っていた。


(あ、もうすぐ0時)


 夕食の後に確認し直した時計のデジタルの数字が、あと数秒で0時を告げることを確認すると、梨璃子は深呼吸する。カウントダウンされていく数字だけが静かに進み、おのずと緊張感も高まっていく。


(3、2、1、0……‼)


 全ての数字が0に揃った時、それは突然起こった。


「えっ⁈」


 ぐわっと、梨璃子の体は何か大きな手にでも引っ張られる様な感覚で突然後方へと引っ張られたかと思うと、途端に目の前が真っ暗になった。


「なにっ⁈ どうなってるのっ⁈」


 何もない空間に投げ出された恐怖に梨璃子が思わず声を上げると、次の瞬間現れた光の渦の眩しさに、思わず目を瞑る。


「‼」


 前方からぶわっと吹きつけた温かな風が梨璃子の体を通り過ぎたかと思うと、梨璃子は自分が光あふれる場所に降り立ったことを肌で感じ、顔を覆っていた腕を恐る恐る解く。


「……ここは?」


 ゆっくりと目を開けると、目の前には鬱蒼と木が生い茂った森があった。視線をゆっくりと左右へくゆらせると、茶色い土にまばらに生えた雑草や花から、そこが屋外であることを知る。


(転移の能力ギフト? これが、ゲームの能力ギフトだっていうのっ⁈ ていうか、能力ギフトって、こういう風に感じるんだ……)


 両親や他の人達が能力ギフトを使っているところを見たことはあったが、自分自身に能力ギフトを感じる機会は少なかった。それは梨璃子の家が、中々能力ギフトの開花しない梨璃子を気遣ってかは知らないが手作業で出来ることは手作業でやるという方針だったこともあったのと、転移の能力ギフトは条件も多くあまり使うのを見る機会もなかったからだ。今現在は非能力保持者ノンギフテット達との生活ということもあり、能力ギフト自体に接する機会も極端に少なかった。


(なんか……気持ち悪い)

 まだ僅かに残る不思議な感覚に乗り物酔いに似た気持ち悪さを感じ、梨璃子は右手で口元を覆った。


「……なにその恰好。ダサすぎない?」


「!」


 急に後ろから掛けられた声に梨璃子はびくりと肩を震わせると、その失礼な内容と聞き覚えのある声に、眉間に皺を寄せて振り返った。


「……これが一番動きやすい恰好だったのっ。ていうか、あなただってジャージじゃない」


 予想に違わずそこに立っていた紫蘭にそう言うと、梨璃子は紫蘭の頭の先からつま先まで視線を走らせた。同じジャージというくくりで呼ぶには、紫蘭のそれはカラフルな上にハーフパンツにレギンスを重ねていたりと、梨璃子に比べれば明らかにお洒落であった。そのせいか、紫蘭は梨璃子の言葉に心底嫌そうに顔を歪めた。


「は? コレとソレを一括りにするの?」


「……機能的にはほぼ一緒でしょ?」


「……そういう観点で言えばそうかもね」


 紫蘭が呆れ顔で終止符を打ったその時、突然ピーーーーーーーというハウル音がどこからともなく聞こえ、梨璃子は何事かと反射的に空を見上げたが、紫蘭はそれが何かを分かっているかのように溜息を一つ零しただけだった。


『皆さん、こんばんは。現国王代理の蘇芳・クジョウです。この度は、次期国王決定の為のゲーム参加に賛同してくれてどうもありがとう』


「蘇芳様っ⁈」


「いつから強制のことを賛同って言うようになったんだよ」


 梨璃子が突然聞こえた現国王の声に驚きの声をあげると、対照的に紫蘭は辟易として言葉を零した。梨璃子はその悪態にそっと目を瞠る。


『では、今からゲームについての簡単なルールを説明するよ。まず、このゲームは次期王候補である王位継承者の王族とグリーンベル学園の生徒のペアで行ってもらう。ゲーム参加は一日一回、午前0時をスタートとするよ。毎日その時間になったら、参加者は今日と同じようにゲームの能力ギフトでこのゲーム会場である特別空間へ召喚される。どこにいても、何をしていても、ゲーム参加中は強制的に呼ばれることを念頭に置いて常に行動して欲しい。これはお願いでもあるかな。各人のスタート位置はバラバラになっていて、ゲーム参加中は直接接触以外では誰がどこにいるか、ゴールがどこなのかも参加者にはわからないようになっているから覚えておいてほしい。日中他の参加者と意見交換するのは自由だけど、それもあまり意味がないから、その辺りは各自の判断に任せるよ』


(そっか。これに参加してるのは、私だけじゃないんだっけ。この空間のどこかに、学校の誰かがいるんだ……)


 梨璃子は蘇芳から発せられた言葉を噛みしめるように大きく息を吸い込むと、この空間に自分以外の罪人候補生ギフテット・ワナビーズと呼ばれる者、すなわちグリーンベル学園の生徒がいるという事実に少なからず緊張を覚えた。


(今から、皆がライバルなんだ……)


 グリーンベル学園においてあまり感じることのない感覚に、梨璃子の胸に表現し辛い感情が襲った。学校では、皆能力ギフトを開花させるという一つの目的の為に過ごしており、それは決して成績に左右されるものではなかった為、自分達の間での競争というものはあまり意識したことがなかったのだ。


(なんか変な感じ……でも、今回は負けられないんだから、しっかりやらなきゃ)


 はたして梨璃子と同じ目的でこれに参加している生徒がどれだけいるかは分からなかったが、どんな気持ちで参加していようとも、梨璃子はそれら全てに勝たなければならないのだ。


「……」


 梨璃子は改めて胸中で決意を固め、どことなく高揚した気分で空を見上げると、近くで小さく息が漏れる音が聞こえた。


『では、次にゲームの進め方の説明に移ろうか。ゲームは二つのダイスを振ってもらって、その出目の数だけ進んでもらう。ただそれだけだ』


「え?」


「は?」


 シンプルな蘇芳の説明に二人の口から思わず拍子抜けした声が漏れた。


(それって、本当にただのゲームじゃない……)


 梨璃子は昔家族とよく遊んだボードゲームを思い出した。


『ああ、でもダイスを振るのはグリーンベルの生徒にお願いするよ。それと、止まったマス目にはタスクがある場合がある。こなすこなさないは各自の自由とするけど、その先を進める上で不利になろうがこちらは関与しないから考えて進んでくれ。あと最後に、戦闘バトルについて伝えておくよ』


戦闘バトルっ⁈」


 突然蘇芳の口から飛び出した物騒な言葉に梨璃子は紫蘭を振り返ったが、紫蘭はただただ蘇芳の声が聞こえてくる空をじっと見つめたままだった。梨璃子はしばらく紫蘭をじっと見つめていたが、こちらを向く素振りも見せない紫蘭に小さく息を吐くと、同じように空を見上げた。


『王位継承者同士が同じマス目に止まった時、その先へ進む権利を掛けて戦闘バトルをしてもらう。戦闘バトルを行うのは王位継承者、すなわち、能力保持者ギフテットだよ。方法については、まあ、その場になればわかるだろうから、ここでは割愛するよ。あ、もちろん戦闘バトルの敗者はそこでゲームオーバー。王位継承権も剥奪されるから、王様になりたい奴はまあ頑張ることだね』


「負けたら、ゲームオーバー……」


 梨璃子はその事実を噛みしめるように呟き、言葉にすることで気を引き締めた。ふと紫蘭の様子が気になって梨璃子は紫蘭を盗み見ると、紫蘭は何か思う所があるような顔でまだ空を見つめていた。


「?」


『ああ、最後に必要となりそうな基本的な物を入れた鞄を送っておいたから、好きに使ってくれ。ダイスもその中に入っているよ』


 蘇芳はそこで一旦言葉を切ると、では、と改まった声を出した。


『ゲームスタート。健闘を祈るよ』


 静かにゲームの開始を告げると、ぷつん、と蘇芳の声はそこで途切れた。


「え? 今ので終わり? なんかもっと、音楽鳴ったりとか、しないんだ……」


 あっけなく告げられたゲームの開始に実感がわかず梨璃子がそう零すと、紫蘭は不思議そうな顔をして首を傾げていた。梨璃子は不審に思い声を掛けようとした所、ドサっと何かが落ちる音がして瞬時にそちらへ振り返る。


「あ。これって、さっき言ってた鞄?」


 見ると梨璃子達のいる場所から少し森側の地面の上に、キャンパス地の肩掛け鞄が落ちていた。


「え? ああ、そうなんじゃない?」


 空を見つめるのに飽きたのかいつの間にか傍に来ていた紫蘭がそう相槌を打つと、梨璃子を通り越してその鞄を拾い上げた。蓋を開け中身を確認すると、つまらなさそうな顔をしてそれを梨璃子に渡す。


「俺いらないからあんたにあげる」


「……え? あ、はい」


「?」


「……」


 少しだけズシりと重みのある鞄を受け取って思わず敬語になってしまった梨璃子に不思議そうに小首を傾げ、紫蘭はキョロキョロとあたりを見回しながら森の方へ歩いて行ってしまった。


(まあ、王子様は持たないよね、荷物)


 よいしょ、と鞄を肩に掛け直しながら梨璃子はその背中を視線で追った。物語の王子はいつだって手を差し伸べてくれるイメージだったのでなんとなく驚いてしまったが、現実は多分こうなのだろうな、と納得する。


(レンブラントさんいたもんね)


 梨璃子はそれ以上考えるのを止めると、自分でも中身を確かめようとおもむろに鞄を開けた。


(ペンにメモに救急セット……今すぐ使えそうなものはないかも。方位磁石とか、ここで必要になるの? 後は、ナイフくらいかなあ? いつか使えそうなのは)


「あ。ダイスってこれのこと?」


 梨璃子は細々としたものの間に一際存在感を放って入れられていた真っ赤な六面ダイスを二つ見つけると、すぐにそれを取り出した。その直後。


「‼」


 梨璃子がそれに触れた途端、ダイスはふわふわと空中に浮きあがった。そして、


『紫蘭・クジョウ、梨璃子・スメラギチーム、ゲーム参加者として登録されました』


と、先ほど蘇芳の声が聞こえてきたのと同じように、梨璃子達が立つその場に機械的な声が響いた。登録完了の音声に、少し離れた場所にいた紫蘭が慌てて駆け寄ってきた。


「あーあ、これでマジで参加じゃん……」


 紫蘭は空中に浮かぶ真っ赤なダイスを見ながらがっくりと項垂れると大きな溜息を吐いた。


「じゃあ、さっさと振ってよ。早く終わらせよ」


「……」

(……まあ別に、期待してたわけじゃないし)


 昨日の様子から、紫蘭がこのゲームに対して乗り気じゃないのは分かっていた。とはいえ、実際に目の前で非協力的な姿を見ると、最後まで頑張れるのだろうか? と少し不安になってくる。


(……ううん。そんなこと考えてる場合じゃない。やらなきゃいけないんだから)


 梨璃子は気持ちを切り替えるように頭を大きく横に数回振ると、すう、と大きく息を吸い込んだ。


罪人ツミビト免除のためにっ‼)


 梨璃子は胸中でまるで祈るようにそう叫ぶと、紫蘭に言われた通りダイスを振るべく空中に浮かぶそれに触れた。


「えっ? なにっ⁈」


 するとそれは梨璃子の指先が触れた傍からその大きさを十倍くらいに膨れ上がらせ、くるくるとその場で回転し始める。


「見やすくなったじゃん」


「え? これって、そういう意味なの?」


 梨璃子が半信半疑で大きくなったダイスの片方に触れると、ダイスは急速にその回転数を弱めた。


「あ!」


「なにっ⁈」


 梨璃子が急に大声を上げると、紫蘭がびくりと体を反応させた。


「出目が大きくなるように考えて振るの忘れてたっ……」


 梨璃子が悲壮感漂う声でそう言うと、紫蘭は嫌そうに顔を歪めた。


「なんだ。そんなどうでもいいことで大声出さないでくれる?」


「よくないっ! だって、こういうのって沢山進んだ方が良いに決まってるしっ!」

(ああ失敗したっ……)


「……」


 紫蘭が呆れた視線を梨璃子に向けた時、余韻でくるくると回転していたダイスがぴたりとその動きを止めた。梨璃子が恐る恐るそちらへ視線をやると、


「2と3だって。残念だったね」


と、梨璃子が見るよりも先に紫蘭からちっとも残念そうじゃない声があがり、梨璃子は小さく肩を落とした。


(まだ最初だもんね。取り返せるはず。次はちゃんと気を付けよう……)


「……それにしても、どうやって進むんだろう?」


 気を取り直して梨璃子が不思議そうに首を捻ると、紫蘭は肩を竦めてみせた。


「さあ? 俺が知るわけないじゃん」

(そんなの分かってるけどっ! 会話すら期待するなってことっ⁈……)


 梨璃子は諦めたように小さく息を吐くと、回収するためにもう一度ダイスへ触った。するとダイスはシュルンと元の大きさに戻ると共に、先を示す声を残した。


『該当のマス目まで一気に飛びますか? それとも各自で進みますか?』


「あ。こういうい感じで進んで行くんだ。じゃあ……」


「一気に飛ぶ方で」


「ええっ⁈」


 ふいに上から聞こえた紫蘭の声に梨璃子は不満気に振り向くと、紫蘭の紫の瞳と目が合った。紫蘭は不服気に眉根を寄せると、なんで? と声を漏らす。


「だって、ここがどういう場所なのか見るチャンスじゃない? たった五マスだし、それくらい歩いたって……」


「あのさあ、たった五マスって言うけど、一マスの距離が具体的に提示されてないんだから、朝まで歩いたって着かない可能性もあるわけでしょ? それに、こういう盤上ゲームって、通り過ぎるマス目に何があったってそこは関係ないんじゃないの? だったら、そんな何もないとこ歩いても疲れるだけじゃん」


「それはっ……そう、だけど……」

(正論すぎて何も言えない……)


「じゃあ決まりね。一気に飛ばせて」


 紫蘭が梨璃子の返事を待たずにそう言うが早いか、梨璃子の体がふわっと浮かんだ。


(あ、これ、またっ……)


「!」


 転移の能力ギフトだと分かりつつも、慣れない感覚にバランスを崩した梨璃子は咄嗟に手を伸ばした。指先が触れた何かを縋るように力を込めて握ると、


「うわあっ‼ ちょっとっ、なにっ!」


と、頭上から紫蘭の驚いたような声が降ってきた。


「ご、ごめんなさいっ。慣れなくて……」


 思わず掴んだ紫蘭のジャージの裾を離せないまま、梨璃子は独特の浮遊感に強張らせた顔を上げてそう言うと、紫蘭は一瞬考えるような表情をしてみせたが、小さな溜息を一つ吐いただけでそれ以上何も言わなかった。


(……振り払われるかと思った)

「……ありがとう」


 梨璃子が素直に礼の言葉を口にすると、紫蘭はふいと視線を逸らした。


「……こんなゲームさっさと辞めたいけど、こんなことで怪我してリタイアとかなったら、蘇芳になに言われるかわかんないし。だから、あんたもさっさと慣れてよね、これくらい」


「……」

(……言わなきゃよかった)


 前方にぽっかりと空いた穴から零れる光にキラキラと輝く紫蘭の金髪を恨めしそうに見ながら、梨璃子は無事地面に降り立つとすぐさま掴んでいたジャージを放した。一瞬にして後悔で埋められた胸中に思わず苦虫を潰したような顔をすると、気持ちを切り替える為に周囲へぐるりと視線を巡らせた。紫蘭は特に気にした様子もなくふらふらと歩きだすと、目先の地面に落ちていた何かを拾い上げた。


「なんだこれ? えーっと、五千エン獲得、って、どこにも落ちてないんだけど」


「え? なに?」


 手に紙切れを持ったままキョロキョロと辺りを伺っている紫蘭の手元を梨璃子が覗き込むと、紫蘭は、はい、と既に興味を失ったと言わんばかりに今拾ったメモを梨璃子に渡した。梨璃子は受け取ったそれを食い入るように読むと、同じように周囲に視線を走らせる。


(確かに。この人の言う通り何も落ちてもないし、宝箱みたいなものもないし……ん?)


 梨璃子は少し先の地面の上に何かが書いてあるのを発見し、釣られるようにそちらに歩みを進めた。紫蘭も梨璃子が移動したことに気づいたのか、その地面の落書きを囲むように立つ。


(これって……)


「なにこれ? ×マーク?」


「うん。多分、ここに五千エンが埋まってると思う」


「……ほんとに?」


「だって、これくらいしか怪しそうなものないし……他に地面の上に何もないし」


「まあ、確かに……で、どうすんの? まさか掘るとか言わないよね?」


「え? 掘るに決まってるけど」


 当然と言わんばかりに梨璃子が即答すると、紫蘭は心底嫌そうに顔をしかめてみせた。


「あんたそれ本気で言ってんの? 五千エンくらいいいでしょ、大した金額じゃないし。今日は移動しただけで終わりでいいじゃん。初日なんだし」


「ダメよ!」


 完全に帰宅モードになっている紫蘭に梨璃子は被せ気味に反論すると、紫蘭の瞳が弾かれる様に大きく見開かれた。


「なんで?」


「だって、もしかしたら今後お金が必要になるかもしれないでしょ。向こうからお金を持ち込めるかわからないし、だとしたら貴重な資金じゃない? 貰えるものは貰っとかなきゃ」


「……やるだけ無駄なのに」


「え?」


 紫蘭がぼそりと呟いた言葉は、梨璃子には届かなかった。不思議そうな瞳を向ける梨璃子に、紫蘭は小さく息を漏らした。


「……なんでもない。まあ、あんたはそう言うだろうと思ってたけど。じゃあ、頑張って」


「え?」


「俺に期待しないでって言ったよね」


 紫蘭は呆れたようにそう言うと、梨璃子に向けひらひらと手を振ってくるりと踵を返した。


「……確かに、そう言ってたけど」

(本当に何もしないつもりなんだ……)


 僅かにあった、そうは言っても、という気持ちを完全に打ち砕かれ、梨璃子は思わず紫蘭の背中をぽかんと見送ってしまった。だがすぐに小さく頭を振って気持ちを切り替えると、地面の×印へと改めて向き直った。


(もうこれからは本当に少しも期待するのをやめよう。別に、手伝ってもらわなくても自分でできるし……穴なんて掘ったことないけど、まあ、なんとかなるでしょ)


 梨璃子は試しに靴の先で×印の書かれた周りの地面をつついてみた。赤茶の土自体はそれほど固くもなく、つま先で少し掘っただけでもすぐに表面の土は剥がれ、掘ること自体には問題はなさそうだった。


(問題は、どうやって掘るか、だよね……)


 梨璃子はとりあえず先ほど支給された鞄の中をもう一度探ってみたが、記憶の通り、スコップの様な穴掘りに適したものが入っているわけもなかった。


(使えそうなものは……あ。ナイフで木の枝を切れば棒になる。確か、昔の人は棒で土を掘ったとかって……)


 梨璃子は閃くが早いか、キョロキョロと辺りを伺った。視界の左端では紫蘭が木陰に寝そべって携帯端末をいじっている姿が目に入ったが、見なかったふりを決め込んで反対側の茂みへと足を向ける。緑に溢れた森は材料を探すには打ってつけで、梨璃子は自分の手に馴染みそうな枝をさっそく物色した。


「……これくらいの太さでいいかな?」


 目ぼしい枝を見つけると、梨璃子は根本めがけて一気にナイフを振り下ろした。

「!」

(良かった。なんとかなりそう!)


 上手い事根本に刺さったナイフを駆使して梨璃子はその枝を切り落とすと、ついでに分かれた枝葉もその場で切り落とし、木の枝をあっという間に棒状にしてしまった。


(……先が平たい方が掬いやすいのかも?)


 梨璃子は出来上がった棒を少しの間眺めると、おもむろに先端にナイフを当て棒の半分をそぎ落とした。簡易的なヘラの様な形になったそれを梨璃子は満足気に見やると、×印へと戻る。


「よし。じゃあ、始めよう」


 梨璃子はそう独り言を零すと、今用意した棒を真っ直ぐ土へと突き刺した。するとそれは抵抗なく地面へと埋まって行き、梨璃子はどうにか穴が掘れそうな状況にほっと胸をなでおろす。


(後は、こうやって……)


 埋めた棒をザクザクと動かし、梨璃子は黙々と地面を掘り始めた。もちろんシャベルを使った作業とは違いやり難さと手間感はあったが、目的が達成できそうな雰囲気に満足感が胸に満ちた。


「うーん……中々出てこない」


 直径20センチ程の穴を30センチ程の深さまで掘った所で、梨璃子は一度手を止め小さく息を吐いた。慣れない作業に徐々に疲労が現れる。


(確かに穴は掘れないことはないけど、もし随分深いところにあるんだとしたら、この棒だけで掘れるのかな?……とはいえ、あの人は絶対に手伝ってくれないだろうし……)


 梨璃子はちらりと視線をやると、先ほどと変わらない姿勢で携帯端末をいじっている紫蘭に思わず溜息が零れる。


(……こういう時に能力ギフトがあったら、穴なんて一瞬で掘れちゃうんだろうなあ……って、別に穴くらい能力ギフトがなくたって掘れるけど……でも)


 梨璃子は自分が掘った穴を見た。決して満足する深さではないが、道具もない中よくやったとは思う。でも。


(五千エンが見つかってないなら、よく頑張った、じゃダメなのよ)


 今はゲームの真っ最中で、求められていることはタスクのクリアだ。何も得ない自己満足などではない。


(でも手伝いなんて期待できないし。お願いしたってどうせやってくれないだろうし。あーあ、せめてシャベルでもあればもう少し希望が持てそうなのに)

「……」


 シャベル、シャベル、と梨璃子は恨み節と共に手にしていた木の棒をじっと見た。その視線の端に、紫蘭がはめた腕輪が映る。


「あ」


 何かを閃いて、梨璃子はパっと紫蘭へと視線をやった。すぐにそれをまた手元の棒に戻すと、何かを考えるように視線を上げる。少しの間目を閉じて考えていたが、


「いけるかも」


と、小さく呟いてパっと目を見開くと、そのままの勢いで紫蘭の方へと歩みを進めた。


「……なに? 終わった?」


 梨璃子の来訪を終了の合図と取ったのか、紫蘭は大きく伸びをすると固まった体をほぐすように首や肩を回し始めた。梨璃子はそれに構うことなくぺたんと紫蘭の前に膝をつくと、紫蘭が不思議そうな視線を寄越す。


「……なに?」


「お願い。あなたの能力ギフトを貸して欲しいの」


 梨璃子はそういうと、地面に手をついて頭を下げた。紫蘭はその姿にぎょっと目を剥くと、はああ、と大きな溜息を吐いた。


「なに? いきなり。頭下げるとかやめて欲しいんだけど……俺何もしないって言ったよね? あんたも納得してたじゃん」


「それはわかってる。でも、あなただって息はするでしょ? 能力保持者ギフテットにとって能力ギフトを使うのは息をするのと同じって聞いたわ。だから」


 梨璃子は地面に手をついたままの姿勢で顔だけ上げてそう言うと、紫蘭は呆れた視線を返す。


「……そんなん屁理屈じゃん。なんでやりたくないって言ってる俺が力貸さないといけないの。それに、あんた一人で頑張るんじゃないの? もう撤回って、プライドないわけ?」


「……」


 痛い所を突かれて梨璃子は一瞬押し黙った。結局能力に頼るのか、と言われているようで悔しかったが、大局を見れば小さなそれに、梨璃子はぐっと我慢した。


罪人ツミビト免除と比べれば、そんなことどうでもいいわ)


「あるけど。でも、別にパートナーのあなたにお願いすることはプライドが傷つくことじゃないし。それよりも、そんなくだらないことで意地を張って、今日のタスクを取り逃す方がよっぽどプライドが傷つくわ」


 梨璃子がそう言って真剣な眼差しを向けると、紫蘭は理解できないとでも言わんばかりに顔をしかめた。


「……すごいダルい。ねえ、あんたにとってこのゲームって何なの? あんたが王になれるわけでもないのに、嫌いなやつに頭下げてまで勝ちたいの?」


 呆れを通り越した紫蘭の言葉に、梨璃子は同意しづらいと言わんばかりに眉間に皺を寄せ小首を傾げる。


「嫌いなやつ? 私あなたのこと嫌いなんて言った? 確かに、不法侵入のくせに態度はデカいし、非協力的な態度は意味わかんないって思ってるけど」


「……今サラっと悪口言った?」


 紫蘭がムっとした視線を梨璃子にやると、梨璃子は一瞬とぼける様に視線を明後日の方向へ外した。だが、すぐにまた紫蘭へと戻すと、小さく息を吐いた。


「……とにかく。別にあなたのことを嫌ってないし、私は今このタスクをクリアしたいからお願いしただけ。確かにあなたからすると、期待するなって言ったのに即行で期待してるって言われたらそれまでだけど。でも、言うだけタダだし、あなたが気まぐれで力を貸してくれたらラッキーでしょ? だから言ってみたの。でも、嫌ならそれで良い。さっきの続きをするだけだから」


「……」


 紫蘭は真正面から梨璃子を捉えると、しばらくの間黙ってしまった。何かを考えているようだが何も動きのない紫蘭に、梨璃子は諦めたように小さく息を吐くと、折

っていた膝を戻して立ち上がった。


(まあ、やっぱり無理だよね)


 ジャージについた土を払い落としていると、紫蘭から大きな溜息が漏れた。


「…………俺はあんたの期待に応えられないから」


「……」


 紫蘭の言葉に、土を払っていた梨璃子の手が止まる。そのままの姿勢で視線だけ紫蘭の方へと向けると、苦渋の表情の紫蘭と目が合った。


「……うん。わかった。答えてくれてありがとう。じゃあ、続きやってくる」

(まあ、そりゃそうだよね。この人は別にこのゲームになんのメリットもないんだし)


 梨璃子と違って、紫蘭はずっと参加したくないと言っているのだ。お願いしたところで突然協力的になってくれるなんて、夜見る夢の中でくらいしか起こらない奇跡だ。


(でもちょっと上手くいくかもって思っちゃったから、疲労感がすごい……)


 アイディアとしては悪くなかったと思っていただけに、またあの作業を繰り返すかと思うと疲れが倍に感じられたが、梨璃子は気持ちを切り替えるために頭を大きく左右に振った。


「……あのさあ」


 期待していなかった方向から聞こえた声に、梨璃子はゆっくりとそちらを振り返った。見ると紫蘭が苦々しい顔をしながらこちらを見ていた。


「あんたが、俺に期待した能力ギフトって、何?」

(期待した、能力ギフト?)


 予想もしていなかった質問に、梨璃子がきょとんとした瞳を返す。


「何って……」


「どうせ、能力ギフトで穴掘って欲しいとか、そういうのでしょ?」


 先程から難しい表情を崩さない紫蘭が気にはなるが、一般的に思いついて期待する能力ギフトはそれだろう。ただ、梨璃子が考えていたこととは少し違うそれにどう答えようかと考えていると、待ちきれなかったのか紫蘭が更に苦渋に満ちた表情で続けた。


「……めんどうだから先に言っとくけど、俺、そんな能力ギフト使えないから」


「え?」

(そんな能力ギフトって、どういうこと?) 


 能力ギフトにそんなもこんなもあるのか? と梨璃子が混乱していると、


「俺が使える能力ギフトって、あれだけだから」


と、紫蘭が言った。


「あれだけ?」


 言葉の意味が理解できず凛々子がが疑問符をつけて繰り返すと、紫蘭は、ん、とおもむろに自分の左腕を上げた。その腕にあるのはもちろん、昨日から梨璃子の右腕にもはまっている紫蘭が造り出した腕輪だ。


「どういうこと?」


「このガラクタ生み出すだけだから」


「……」


 紫蘭の言葉に、梨璃子はぱちぱちと瞬いた。自身の右腕にはまる腕輪へ視線を落とす。


(逆に、能力ギフトでこんなことができるなんて知らなかったけど)


 能力ギフトは物事を便利に効率的にするもの、それが一般的な知識だった。何かを生み出すことができるなど聞いたことがなかったから、驚いたのだ。


(それに、今私がお願いしようとしたのは)


「だから」


「じゃあ、あなたの能力ギフトなら、協力してくれるの?」


「⁈」


 梨璃子が真剣な眼差しでそう言うと、紫蘭の瞳が驚きで見開かれた。梨璃子は立ち上がった膝を折りまた紫蘭に詰め寄ると、その様子を視線で追っていた紫蘭が、梨璃子と目を合わせた時に理解不能だと言わんばかりに眉根を寄せた。


「あのさあ、話聞いてた? だから俺にできるのは」


「金属の板って出せる?」


「⁈」


 紫蘭の言葉を正しく理解して放った梨璃子の言葉に、紫蘭が困惑したように瞳を揺らした。


「……出せるけど」


「‼」


 梨璃子の意図が読めず訝し気な瞳と共に吐き出された言葉に、梨璃子は喜びに頬を上気させる。ぱちん、と胸の前で合わせた手を組むと、


「じゃあ、シャベルの先っぽみたいなイメージで、出してほしいのっ!」


と、期待と希望に満ちた声を上げる。


「さっきから頼もうとしていたのはこれだから。ちゃんと話聞いてるでしょ?」


「……」


 決めつけで話していたことを咎めるようにじとりと紫蘭を見ると、紫蘭はバツが悪そうにふいと視線を外した。答える代わりにずっと手にしていた携帯端末をその辺に置くと、梨璃子に向き合うように胡坐をかいた。何も言わず紫蘭はそのまま両手を合わせると、梨璃子は視線をそこへ集中させた。


「……できるって言ったけど、ほぼ全然使ったことないから、期待しないでよ」


「できるわよ。だって昨日できたじゃない」


 曇りのない瞳で梨璃子がそう言うと、紫蘭の表情が曇った。だが止める気はないようで、梨璃子を一瞥した後また意識の集中へと戻った。


「……」


 沈黙が訪れてから少しして、紫蘭がくっつけていた掌をゆっくりと左右へ開いた。すると、その開かれた空間に金属板が現れ、梨璃子は瑠璃色の瞳を大きく見開いた。自然と頬に笑みが浮かぶ。


「すごい……」


「……すごい?」


 訝し気な紫蘭の声と同時に、生み出された金属板が音もなく地面に落ちた。梨璃子は思わず手を伸ばすと、しっかりと重みのあるそれを救い上げ、肯定を示すように何度も頷いて紫蘭を見た。


「だって、何もないところから何かを生み出す能力ギフトなんて、聞くのも見るのも初めてだから」


「……」


(やっぱり、能力ギフトって良いな……)


 現状自分が持たざる側だからか、固有の能力ギフトを見たせいか、ある種の憧れのような気持ちを持ってしまう。梨璃子の心情など一切気づかない紫蘭が、


「こんなもんでも?」


と、自嘲気味に笑ったが、梨璃子は、またも肯定を示すように頷いた。


「だって、この状況を打破できるのは確実にあなたの能力ギフトのおかげよ」


 梨璃子はそういうが早いか、金属板を棒の先にあてがった。自分の想像通りに物事が運びそうなことに嬉しそうに一度大きく頷く。そして鞄からナイフを取り出すと、逆の棒の先に振り下ろす。紫蘭はその姿に驚いたように目を瞠ったが、梨璃子は構わずに突き刺したナイフを地面に打ち付け、棒の先に少し亀裂を入れる。


(よし。後は、ここに金属板を挟んで……ロープでグルグル巻きにすれば……)

「できた!」


 梨璃子はなんとか簡易シャベルのような物を作りだすと、嬉しそうに紫蘭にそれを見せた。梨璃子がそれを手に早速堀りに戻ろうと立ち上がると、


「ねえ、そういうの、なんで知ってんの?」

と、ふいに背中に紫蘭の声がかかった。梨璃子は手に持った簡易シャベルと紫蘭とを交互に見る。


「……なんでって……あれ? なんでだっけ」

(学園の図書館で読んだんだっけ?)


 曖昧な記憶に首を傾げる梨璃子に紫蘭は特に興味なさそうに視線を伏せると、


「じゃあ、あとはまあ頑張って」


と、先ほど投げ捨てた携帯端末をまた手に取った。


(……まあ、別にいいけど)


 梨璃子はその姿に小さく息を吐くと、先ほど掘った穴まで戻り、今作ったばかりの簡易シャベルを早速穴へ突き立てる。


「! やっぱり全然やりやすいっ!」


 先ほどの苦労が嘘の様に何倍もの速さで掘り進められることに梨璃子は嬉しくなり、作業の速さにも拍車がかかった。


(……確かに穴は掘れたけど、でも、全然それっぽいもの見えてこないな……)


 倍は掘り進めたであろう頃、割と深くなった穴を覗き込みながら、梨璃子は小さく首を捻った。


「もしかしてあの×印はフェイクで、他に何かあったのかな?」


 最初のマスからそんなにも意地悪なことをしてくるのであればこの先が思いやられるな、と梨璃子はため息を吐くと、だが今更止めることもできず、また簡易シャベルを穴の中へと突き立てた。すると。


「!」


 ガツン、と簡易シャベルの先に何かが当たる音がして、梨璃子は急いで穴を覗き込んだ。目を凝らすと穴の奥の方に箱の蓋のようなものが見え、梨璃子はすぐにその周りの土を重点的に崩し始める。


「あった!」


 無意識に口から零れた言葉と同時に梨璃子は簡易シャベルを投げ捨て地面に膝を着いた。屈み込んで箱めがけて腕を伸ばしたが、なにげに深く掘られた穴の先に手が届かず、梨璃子は思い切って地面に寝そべって手を伸ばす。


(あと、ちょっとなんだけどっ……)

「んー……」


 顔を地面につけてそちらに重心が行くようにして手を伸ばしても中々状況が打開できずに困っていた梨璃子の上に、ぬっと黒い影が差した。


(え?)


 不思議に思い梨璃子が視線だけそちらにやると、いつの間にかこちらに来ていた紫蘭が無表情でゆっくりと身を屈めた。


「ちょっとそこどいて」


「え?」


 紫蘭はそう言うと手で追い払う様な仕草をして梨璃子をどかせると、代わりに自分が地面に寝そべって穴の中へ手を伸ばした。


「……あ、これか」


 左手だけ穴の中に突っ込んだ状態で紫蘭はぽつりとそう零すと、よ、という掛け声と共に穴の中からいともたやすく小さな箱を取り出した。思わず正座をしてその様子を見守っていた梨璃子の手の中にぽんとその箱を渡すと、紫蘭もその場へ胡坐をかいて座った。


「ありがとう……でも、どうして?」

(期待するなって言ってたのに……)


「どうして、って、別に。これ以上時間かかったら朝になるし。さっさと帰りたいだけ。それより、中見た方がいいんじゃない? あんたが欲しがってたお金じゃないかもしれないし」


「え? あ、確かに……」


 梨璃子は言われるがままに小さな木箱に手を掛けた。やっと掘り当てたお宝にわずかに生まれた緊張に、梨璃子はこくりと唾を飲み込む。鍵のかかっていないそれをゆっくりと開けると、中から一枚の紙切れが現れ、梨璃子はそれを空中で広げる。


「五千エン!」


 両手で掲げてその喜びを噛みしめていると、その姿があまりにも無邪気だったせいか、一瞬面食らったように目を見開いて驚いていた紫蘭の口元が、ふっと、緩んだ。


「喜びすぎでしょ」


 口調は呆れていたが、今までに見せたこともない表情をしている紫蘭に思わず梨璃子の視線が釘付けになっていると、ふいに紫蘭の手が梨璃子の顔へ伸び、梨璃子は思わず体を反応させてそれを避けた。


「な、なにっ?」


「なにって、あんたさっき寝ころんだから顔に土ついてる」


「え?」


「……ほら」


 そう言って紫蘭の指先が梨璃子の頬を払うと、パラパラと茶色い粒子が風に乗って落ちて行った。梨璃子は咄嗟に視線を逸らし、地面へ還っていくその埃を追った。


「あ、ありがとう」


 思いがけない紫蘭の行動に一瞬心臓がどきりとしたような気がして、梨璃子は小さく頭を振った。誤魔化す為にジャージの裾で今紫苑に触られた場所を拭う。


(こういうとこだけ王子様っぽいの、ズルくない?……)


 マイナス面を見すぎてすっかり忘れていたが、急に見せられた王子っぽさに不覚にも心を乱されたことを誤魔化すように、梨璃子は触れられた場所をさらにジャージで擦った。


「……そんなに擦ったら肌痛めるし。まあ俺の知ったことじゃないけど。ねえ、じゃあもう帰っていいよね? 五千エン見つけたってことは、タスク終わりでしょ?」


 紫蘭は自分のジャージについた土を払いながら立ち上がると、空に向け両手を大きく伸ばした。梨璃子も釣られて立ち上がると、今度は何かを言われる前にとジャージの土を丁寧に払う。


「うん。たぶんこれで終わりだと思うけど……そういえば、どうやって帰るんだろう?」


「さあ? でも帰りたいって言ったら帰らせてくれるんじゃない?」


 紫蘭ががそう言うと、まるでどこかでそれを聞いていたかのように、空中から、


『ゲームから離脱しますか?』


という機械音声が聞こえた。


「便利。うん。帰る」


 紫蘭は空に向かってそう宣言すると、何かを考えるようにしばらくの間難しい顔をしてじっと自分の手を見つめていた。


(さっき箱を取った時に傷でもできたのかな? なんかそういうの気にしそうだし。擦り傷とかだったら、カバンの中に救急セットがあった気がするけど……それよりも、また転移能力ギフトだよね……)


 梨璃子はそれに気づくと、先程の感覚を思い出して思わず口元を手で覆った。酔うまではいかないとしても、あのバランスの崩れる何とも言えない感覚は、可能であれば避けたいものだった。


(でも、罪人ツミビト免除の為ならこれくらい我慢しなきゃ……ん?)


 梨璃子が弱気になった心を奮い立たせるように頭を振った時、視界の端に紫蘭の手の平が映り思わずそれを辿るように視線を上げた。その先で、なんとも言えない顔をした紫蘭の瞳とぶつかる。


「なに?」


「……あんた、苦手なんでしょ? 転移能力ギフト。途中で落ちられても困るし。適当に掴まって」


ほら早く、と紫蘭はぷらぷらと右手を振ると、さっさと掴まるように視線で催促をする。


「……ありがとう」


 梨璃子は素直に紫蘭の申し出を受け取ると、ジャージの裾をきゅっと掴んだ。期待するなと言いつつも、先ほどの件も含め梨璃子に協力的に見える態度は、正直戸惑ってしまう。


(なんだろう? 貴族は平民を助けないといけない、みたいな教育の賜物?)


 王子の体に染みついているんだろうか? と梨璃子が失礼なことを考えていると、


「ねえ。もういいよ」

と、紫蘭がまた空に向かって話しかけた。だが今度は機械音声は特に反応することなく、二人の間に沈黙が落ちる。


(……なんか、そういうのじゃないってわかってるけど、男の人とこんなにくっついたことないから、なんか恥ずかしくなってきた……ああ、嫌だけど早く転移能力ギフトで飛ばしてほしい……‼)


 梨璃子は妙に密着した状態に、場違いだとは分かりつつもソワソワとなんだか落ち着かない気分になった。だからと言って紫蘭の腕を手放すことはできず、梨璃子は頭頂部に何やら視線を感じるような気がするが上を向けないままの態勢で今か今かと次の機会音声を待った。


「……ねえ、なんでそんなに頑張るの?」


(え?)


 ふいに聞こえた紫蘭の呟きに梨璃子が反射的に視線を上げたと同時に、梨璃子達は転移能力ギフトの光に包まれた。その為、紫蘭がどういう表情で何を思ってそう言ったのかは、分からないままだった。

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