最終章:交代
朝、開店の時間。
店内はいつもと変わらない。
新聞を広げる老人たち。
スマートフォンを手放さない若者たち。
レジの前で笑顔をつくる、佐藤くん。
そこに、私はいなかった。
もう誰も私を呼ばない。
シフト表に、私の名前はなかった。
ロッカーも空だった。
私がいつ使っていたのか、誰も思い出せなかった。
だが、私はいた。
確かに、この場所に“いる”。
11時。
開店からちょうど1時間。
店内の空気が、一瞬だけぴたりと止まる。
冷たい、音のない風が足元を撫でる。
そのとき、自動ドアが静かに開く。
――ウィーン。
「いらっしゃいませ!」
新人の女の子が明るい声を出す。
彼女の視線が、ふっと宙をさまよう。
店に入ってきたのは、黒いワンピースの女だった。
彼女は無言のまま、窓際の一番奥の席へ向かう。
足音は聞こえない。
けれど、その存在だけが、空間を満たす。
彼女の髪は艶やかに揺れ、マスクの下の目元だけが静かに光を帯びていた。
その目は、冷たく、そして深く、どこか悲しげだった。
新人は一瞬、声をかけるのをためらった。
だが、それがなぜなのかは分からなかった。
ただ、**その人が「何か違う」**ということだけが、本能のように伝わってきた。
「ブレンドコーヒーで、よろしいですか?」
言葉が宙を滑り、誰の返事もない。
けれど、それでいい。
彼女は、いつもブレンドコーヒーを飲むのだから。
その日から、また彼女は毎日やってくるようになった。
いつも同じ時間、同じ席、同じ注文。
誰とも話さず、誰にも気づかれず。
それでも、必ずそこにいる。
新人の彼女は、まだ知らない。
“それ”がいつか自分自身になるかもしれないことを。
ただ、今日もまた、黒いワンピースの女が、カフェに静かに座っていた。
黒いワンピースの女 蒼月想 @aotukisou
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