義務教育化されたAED訓練をクラスメートの男子と行う女の子の話

かめのこたろう

義務教育化されたAED訓練をクラスメートの男子と行う女の子の話


 そもそも発端はただのデマ、噂話程度のことだったらしい。



 AED、自動体外式除細動器。

 心臓がとまっちゃった人に行う緊急時の医療対応。


 男性が女性に実施したら、セクハラとして訴えられたなんて話が一体どこからきたんだが。

 すでに半世紀ほど経った今ではもう記憶と記録の遥か彼方、掴みようのない幻のようなものでしかない。


 ただ、その出どころ不明の根拠なきデマゴギーによって、その後実際に手当てが間に合わずに死亡する事例が増えてしまい、政府が対策を法制度化する必要に迫られたという結果だけは確かだった。


 曰く、男女間の心理的抵抗、根深い倫理的拒否感と性意識が原因であると。

 曰く、解決策として成人する前の義務教育時点で実施訓練を行い、特に男子から女子への心理的抵抗を減らす必要があると。

 曰く、患部露出と胸部への接触、人工呼吸を実施体験させて一般化習慣化するまで慣れさせると。


 教本の記載通りに言えばそういうことらしい。

 つまりは私が今こうして、ひんやりと冷たい体育館の床に寝っ転がってクラスメートの男子を見上げていよいよこれから胸を触られキスをされるという状況は異様でもなんでもない普通のこと。


 かつては本当にこんなことに心理的抵抗なんかあったんだろうか。

 今の時代の私たちにとってはごくごく当たりまえの対応でしかないのに。

 この年次になってやることは前々からわかりきっていて、別に覚悟も決意も必要ないくらい受け入れ切っていたんだから。

 初めてこういう風に男の子と接することになるけど、別にだからなんだという。


 ……いや、そのはずだったんだけれども。


 ちらりと視線を数組離れた斜め右上、ここからでもなんだか和気あいあいとした雰囲気が伝わってくるペアへと向ける。

 自分が片思いしているカレと、その相手の女子。

 一応、友達としてカテゴライズされてはいるけど、個人的にはいろいろ複雑なモノがあるあの子。


 何もかもは彼女が昼休みにビンテージ文化資料データから発掘してきた太古の記録が原因だった。

 あんなものさえ提示されなければ私の心が揺さぶられることなんて一切なかったはずなんだ。


 「ファーストキス」。

 「本当に好きな相手にしか身体を許さないのが純情」。


 そんな今では全く聞いたこともない価値観、異様な恋愛観を色あせた原始的媒体の画像データでテンション高く披露する彼女の得意げな顔。

 それが私にとって本来はただの実務的訓練、実習でしかないAEDの授業を全く別のものに変えてしまったみたいだった。


 そんなのただの思い込みで、くだらない感傷みたいなもんだというのはわかってる。

 常識的に、理性的に考えたらいちいち人命救助訓練の前にそんなの持ち出す方がどう考えてもおかしくて褒められたもんじゃないのは明らかだ。

 遥か昔にこの国で一時期に支配的だったらしい倫理観、貞操観、恋愛意識が齎すまったくもって不合理で無意味な恥ずべき因習。

 たかが個人的独占欲としか思えないエゴを何より優先するその愚劣としか言いようがない姿勢。


 そう考えるのが正しくて妥当なはずなのに。

 それなのに。


 いくらそう頭で理屈として納得しようとしても、私の心にさざなみのように生まれた波紋は収まることはなくいや増す一方だった。

 今からあの、女子の中でもさほど魅力的な方だとも思えない彼女が、大好きなカレに胸を触ってもらったり、唇と唇をあわせると思うとなんとも名状しがたいムカムカとしたものが沸き起こり続けるのだった。

 正しいのは絶対に私の方であの子の方が間違ってるのは明らかなのに。

 究極的に不可侵的であるはずの完璧理論を揺るがして犯してくるわけのわからない理不尽な暴威、馬鹿馬鹿しいくらいに出鱈目な悪夢的現象。

 

 もうなんだか居たたまれないような不条理な感覚に眩暈がして、視線を移す。

 目の前では相変わらず淡々と、でもどこか張りつめたようなものを秘めた感じでクラスメートの眼鏡君が機器の準備を寝っ転がった私のすぐ横で続けてる。


 彼は私にとって何の意味も価値もない存在だった。

 クラスメートという以上でも以下でもない、無味無臭の人間。

 好きにも嫌いにもなりようがない、いてもいなくてもどちらでもいい、まさにどうでもいい男子の一人。


 その眼鏡君は今何を想ってるのか唐突に気になった。

 これまで一切そんなこと考えたこともなかったのに。

 だって私は誰と訓練しようと、ただの物理的接触をAEDの都合上行うだけだったのだから。

 そこにはなんの意味も価値もないのは明白だったんだから。


 でもいま、あの原始的で未開な退廃的価値観を提示された後では、否応なく意識せざるを得ないのだろうか。

 こんな風にくっきりと空間から浮かび上がるように彼の存在を感じなくてはいけないのだろうか。


 「大丈夫ですか?」。

 「助けを呼びます」。


 そんな定型句でAED訓練の始まりを告げる眼鏡君の固い声が響いた。

 もう目前まで迫った事態に、私を包む雑多な感情の波。

 打ち付けては見えないほど細かく分裂して消えていく無数の飛沫。


 ムカムカ、イライラ、ドキドキ、キュンキュン。


 ジーっとジッパーが降ろされて、はだけられる学校指定ジャージ。

 薄い白の半そで体操着だけをむき出しにされる心もとない涼しさ、空気の感触。

 いつもは透けないようにキャミを重ね着してるけど、今日は授業の決め事でしてないから余計にそう感じるのかもしれない。


 そして「胸骨圧迫を開始します」という宣言が告げられると同時に、私の身体は初めて男子を受け入れた。

 その瞬間に脳裏を巡ったいくつものヴィジョン、彼とあの子と、目の前の眼鏡君。


 ただのAED訓練じゃないものがそこにはあった。

 後から振り返っても未だに、うまく説明しようがない特別で異常な何かだった。




 了

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