2 横浜音楽堂


 金沢。

犀川が流れる傍に、室生犀星の碑と高浜虚子の碑が、屋根瓦をいただいた塀を隣に、それぞれ設けられている。

 杏の花が桜色の花びらを散らして、犀星のあんずの碑に降り掛かり。塀を隔てた隣には、高浜虚子の碑がきらめく犀川の波音を背に、ひらひらと舞う花びらを纏ってある。

 高浜虚子の碑を取り巻く石を辿るように歩いて行くと、犀川に下りられる石段がある。河川敷の緑へと市民が下りられるようにと作られた階段は、二つにわかれて、桜橋を仰ぐ犀川の傍へと続いている。

 第二の死体が発見されたのは、この階段の上であった。

 正確にいえば、階段と階段の間にある僅かな土のみえる土手の間に、下に向けて倒れるようにして死体は横になるようにして発見されていたのだが。

 ともあれ、それは後の話である。

 横浜の死体と、そして、いままだ発見されていない第三の死体よりも、この第二の死体が関わることが判明するのは、先の事になるのだが。

 時系列でいえば、横浜で起きた事件の後に、この第二の死体は発見されていることになる。

 もっとも、いまは時を戻して、ともあれ先に横浜で起きた事件に戻ることとしよう。―――







 横浜音楽堂。

 緋色の絨毯が敷かれた通路には、鑑識の置いた標識が幾つか遺体を取り囲むようにしてある。

 三階の観覧席から落ちた状態で死亡確認がとられた遺体をそのままの形に置かれてある。状況を撮影して保存していた鑑識員達が、その人物の到着に周囲から促されて正面を空けた。

「あら、どうもありがとう。ぼくが直接診る必要はないとは思うのですけどね」

おっとりとした口調で現れた白髪長身の紳士が、ゆったりと死体が見える処まできて足を留める。

「ここは大丈夫かしら?そう、邪魔にならない?死亡確認はこちらのコンサートマスターに付き添ってこられたお医者さんがされたのですよね?」

「はい、橿原先生」

「ありがとう。今回の指揮の方もご高齢ですからねえ。今回、貴重な機会がこんなことになって残念です」

「先生も、今日はコンサートを聴きに来られていたんですね」

「そこで検死をお手伝いすることになりますとはねえ。巡り合わせではございますけど。正式な検死は、検死官の方がしてくださってあるんでしょう?」

「はい、先生には是非、その、…事件性があるかどうかを、あわせてみていただければ、―――」

案内している腰の低い刑事をみて、おっとりと橿原が返す。

「そうですわねえ。要は、費用のかかる解剖を行う必要があるか、いつも頼む僕がいるものだから、直接訊いてみようという処なのでしょう?」

「あ、はい、まあ、…そうした処で、…どうでしょうか?」

橿原が、正面からうつ伏せに倒れている男性の死体―――年齢は四十代から五十代前後か――の、丸首のセーターから覗く首筋に視線を置く。

「あら、掻きむしりましたのね」

「あ、はいその、――目撃証言ですが、首を苦しそうにひっかきながら、落ちていったというのがありましてね」

「なら、生きながら落ちたのでしょうかねえ。せめて、意識がなくなっていればよろしいのですけど」

「よろしいというのは、その?」

腰の低い――背もそこそこ低いが――刑事が、伺うように橿原をみて訊ねる。

「だって、意識がなくてあそこから落ちる方が、意識があって落ちるより怖くないでしょう?人生最後にみたものが何かというのは、結局わかりませんことでしかありませんでしょうけどね」

「…―――人生最後にみた景色、ですか、…」

「ええ、どこで意識が途切れたにしろ、最後に見たものが落下している最中に近付いてくる床の映像だなんて、嫌じゃありません?」

ぶるっ、と首を振って橿原の話を聞いていた刑事が顔をしかめる。

「いやな話ですなあ、…。先生のその話は、高いとこから飛び降りて死のうとする自殺志願者に全員きいてほしいようなもんですな。取りやめる気になるでしょう」

嫌そうにさらに首を振って、くわばらくわばら、と呟いている初老の刑事に、橿原が少しばかり瞬いて視線を向けて。

「そうかしら?死ぬ気になっている人達は、結構、どんな状況でも、気持ちが変わらないものじゃありません?」

「それが、変わるものらしいですよ?結構、説得とか、あるいは、憑き物が落ちたとか、ひょいっとちょっとしたことで、かわっちまうもののようなんですよ」

「あらそうなのかしら。でも逆にいえば、その取り憑かれている間は、何をいっても無理で、死ぬという目標しかみえていないのが自殺志願者というものではありません?」

「―――――ああと、先生、お時間が。興味深いお話ですが、…すんません、話を振っておいて」

「ああ、確かにそろそろ御遺体を運んでおかなくてはなりませんねえ。外はまだ寒いとはいえ、暖房が入っている分だけ、痛みもはやくなりますからねえ、…」

「…―――先生…」

痛み、と淡々とあっさりという橿原に、天を仰いで刑事が首を振る。

「で、どうなんです?どちらに運べば?」

「うちに運んでもらっていいと思いますよ?うちの大学で引き取ります。死体は、確かに新鮮な内に運んでもらった方が、作業が楽ですからねえ」

「…――――先生の大学に運ばせていただきます。病院の方じゃ、ないんですね?」

「はい、いつもの解剖学教室のある大学の方へ。病院でも解剖はいたしますが、基本、生きている方専門の施設ですからねえ。色々、不便なこともあるんですよ」

「…ご不便ですか、…いや、いえまあ、わかりました。先生のご希望の場所へ運ばせますよ。おい!橿原先生の、そういつもの教室へ運んでくれ。で、いいんですよね?」

「そうです。資料は、いつもの通り、取りに来てくださるのかしら」

「勿論です、橿原先生、…と、岩田先生」

向こう側から歩いてくる長身で恰幅の良い紺のパーカーを着た男性に刑事が話し掛ける。

 ひょっこりと一礼した恰幅の良い男性が、橿原に向き直る。

「岩田です。ご高名はかねがね、―――こちらの方の死亡確認をさせていただきまして」

「ああ、そうなんですね?コンサートマスターについてこられた先生が、死亡確認をされたと伺っていたのですけど、あなたが」

「はい、岩田繁徳と申します。指揮者の千枚さんとは、父が古い仲でしてね。今回、父にいわれてご同行させてもらってまして、――しかし、こうしたお亡くなりのなりかたをされる方を診させていただくことになるとは思ってもいませんでした」

橿原の言葉に、改めて頭を下げる岩田は、フィールドワーカーのような長靴に防水加工された丈夫なパーカーといった医師のイメージとは遠い服装をしている。その岩田の姿に橿原が少し首を傾げて問い掛ける。

「それで、何故わざわざこちらに?千枚さんにはついていなくてもよろしいんですの?」

「断ってきました。看護師もついてますからね、大丈夫です。本人、コンサートが中止になったのを残念がってはいましたが、――それよりも、亡くなられた方のお役に立ってこいといわれましてね。特に、僕のような門外漢でもお名前を存じ上げてる橿原先生がおられるのでしたら、知ってることを全部話してこいといわれまして」

僕が出る幕はないといったんですけどね、と頭を掻きながらいう岩田に橿原が訊ねる。

「では、死亡確認をされた際に、何かお気づきになったことがございますの?」

「それが一応ありましてね、…―――。検死官の方とかにもお伝えはしたんですが、…―――もうお気づきかもしれませんが、細菌感染しています」

「細菌に」

「首筋の奥、――真っ黒な穴が出来ていましたよ。壊疽が起きていました。蜂巣炎です。よくあれで、歩いていられたものだ」

「――――蜂巣炎ですか。うつ伏せになっていて、こちらからは見えなかったようですね」

「はい、脈をとって、その後、御遺体を元の位置に戻せといわれましたんで、――しかしですね、あれはおかしいですよ、先生」

岩田が首を振りながらいう。もう既に死体が運び出されて絨毯には跡もないが、まだ微物を採取する為に数字の書かれた札に取り囲まれた箇所を振り返って。

 嫌そうに顔をしかめて、死体のあった場所を眉を寄せてみて。

「甘い香りもしましたしね、…。ガス壊疽か何か、にしても、何か疾患があったのかもしれませんが、あれで痛みを感じずにここまできているなんておかしいですよ。そりゃ、糖尿などで足を切り落とす必要があるくらいになっても、怪我と悪化に気付かずに真っ黒に腐らせてることがないではありませんがね?だとしたって、首許ですよ?どう考えたっておかしい」

「…かゆくなって、首を掻きむしりながら落ちていったとすれば、つじつまはあいますでしょうかねえ」

「――あいますか?それ?つじつま?」

思い切り唖然として眉を寄せて見返る岩田に、初老の刑事が下から伺うようにみて話し掛ける。

「あなた、お若いからご存じないかもしれませんが、この先生はいつもこんなです」

「…――あら、失礼ですねえ、権堂さん。あなた、いつもわたくしを立てるようなものいいをしながら、最後にはこれですものねえ。しかし、首許に蜂窩織炎ですか。珍しいこと」

「その、ほう――なんとかっていうのは、何です?」

メモを取り出しながらいう権堂に、橿原が振り向いて。

「蜂窩織炎。――岩田先生、解説してくださいな」

「ええと、――…ああ、そのですね、細菌感染して放置した傷が、真っ黒に穴があいたみたいに、蜂の巣みたいになってみえるのが、蜂窩織炎です。いまどきは、日本では滅多にみない状態なんですけどね。決まった細菌とかに対していうわけじゃなく、感染して酷くなった状態についていいます。―――て、こんな説明で大丈夫でしょうかね?」

権堂に向けて話して、最後に橿原を仰いでいう岩田をみて。

「そうですねえ、…――付け加えるとしたら、よほど汚れたものに触れたり、あるいは、痛みや何かに鈍くなっている病気になっていたりする元がないと、そこまで酷くなることはそうそうないのが現状ということですかしらね。まあ、それはいまから解剖すればわかりますでしょうけど」

「――つまりは、何か病気があって、そんな酷くなるまでわからなくなってなけりゃあ、いまの日本でその蜂の巣みたいなほうなんとか、にはそうそうならないってことですか?」

権堂がメモにまとめながらいうのに、橿原がうなずく。

「まあ、そう思ってもいいものでしょうね、…岩田先生?」

「あ、いえ、―――。あれだけ酷い蜂窩織炎を、いまの日本の医者がみたことが実際あるかと思いましてね。若いのにはいないだろうなあ、…」

「僕の年代で、多少という処でしょうかね」

「橿原先生」

おっとりという橿原に岩田が向き直る。

「それだけ、日本が清潔になったということですけれどね。黒色の炭様に変色して変質した人体の肌など、知らずにくらすのが一番平和ですけどねえ」

「まあでも、それで診断できないってのは困りものですがね。…あ、では、失礼しました。いつでも、また何か確認させていただいたときのことで、お聞きになりたいことがありましたら、こちらへ」

「あらありがとう」

岩田が差し出す名刺に、橿原がおっとり左手に持って見つめているのに。

「先生、…えーと、橿原先生、…―――あ、すみません、私の名刺ですがね、お渡ししておきます。こちらの先生にご連絡されたいことがありましたら、こちらへ、――…先生、名刺もってきてないんですか?」

岩田に名刺を渡しながら、権堂がいって最後小声になって橿原に訊く。

「いやですね、お休みの日ですのに、名刺なんて面倒なものは持ち歩いていません。だって、面倒でしょう?仕事でもないのに。お休みの日も名刺を持ち歩くなんて、そんな仕事人間にみえます?わたくし」

「ぜんっぜん、みえません。…すみませんね、岩田先生」

「いえ、お構いなく、―――それではこれで、」

「こちらこそ、失礼しました。権堂さん経由で連絡いただければ、何かありましたら」

「はい、よろしくお願いいたします。」

一礼して来た方へと去って行く岩田の背を見送って、名刺を手にしたまま何を考えているのか解らない不可思議な視線で立つ橿原に。

 すでに岩田がホールを出て姿がみえなくなり、控え室に向かっただろうと思われる頃合いに。

 無言で、橿原が左手でつまむように持っていた名刺を権堂の前に。

「――すっごく解りにくかったんですがね?…いまのあの若い、っても、中年以降ですが、――お医者さんに何か含む処でもあるんですか?」

「ありますよ。」

「―――あるんですか?って、これをどうしろと?」

手袋をした手で名刺を受け取って、権堂がいうのに橿原が岩田が去った扉の方を見ながらあっさりという。

「かれ、お医者さんではありませんからね」

「―――――え?…え?えええええっ?」

仰天して見返す権堂に、視線を固定したように扉の向こうへと向けたまま橿原が。

「死亡確認を医者がしないまま動かしたのは何か問題になるかしらね?それと、控え室に人をやった方がいいと思いますよ?わたくし、今日の指揮をする予定でした千枚の知人ですけど、千枚が呼んだ医師というのはわたくしですからね。岩田という医師に知り合いはいませんよ、千枚くんは。」

「―――は、はやくいってください、…―――無茶苦茶怪しいじゃないですか!え、でも医者じゃないって、…―――おいっ!いまここから出ていった男を捕まえるんだ!」

あわてて周囲にいた刑事達にいう権堂の隣でおっとりと橿原が。

「どうしていってくれなかったんです!」

若い刑事達に追わせて文句をいう権堂にしれっと橿原が。

「あらだって、“コンサートマスターについてきた医師”が死亡確認したというのを千枚くんに聞きましてね。それで確かめにきましたら、御本人が出てこなくてもいいのに見にくるのですもの。名刺、にせものですよ」

「―――そう、でしょうな、…。しかし、医者じゃないって」

「法律上問題になるかもしれませんね。それとも、はっきり社会死してました?」

「先生も御覧になったでしょうに、――」

「僕はここから眺めていただけですもの。実際に判定するには、もっと近付いてふれてみないとわかりませんよ。それにしても、周囲に人もいて、刑事さん達が来るのもわかっていたでしょうに、死亡確認の振りをしてみせるなんて、度胸がある犯人ですねえ」

「―――やっぱり、犯人だと思います?」

「他にあります?まあ、少なくとも関係者でしょうねえ。何か証拠とかでも持ち去ったのかしら。あ、それと」

「…―――し、証拠、…。それと、もう何です?先生!」

「いえね」

権堂の悲鳴を受け流して、というよりまるで気にしていない風情の橿原が、おっとりと首をかしげる。

「いえ、…あら、それで蜂窩織炎とかなんとかいってみせたのかしらね?悪くない説明でしたけど、…――抜けていますねえ、…」

「何がどうなんです?それって、犯人側にとっていいことですか?それとも、こっち、われわれの方にいいことですか?」

悲痛な顔でいう権堂に構わず、まだ岩田の去って行った方角をみるようにして。

「そんなことはわかりませんけどね。黒い痕が残っているのをあの犯人は知っていて、ミスリードしたかったのでしょうかしらね。少なくとも、当初しばらくでいいから、―――ごまかしたかったということかしら」

「訳が解りません、はっきりいってください!」

「――要は、御遺体にある黒い穴の痕を、細菌感染によるものだと思わせたかったのでしょうね。それを顔出ししてまでいうメリットがあるものなのか、解りませんけど」

「…あなたが、コンサートマスターについてた医者があなた御自身で、あれが医者じゃないことを知ってるのでなかったら、多少はきいたかもしれませんよ?本当に千枚氏についてた医者だと思ってたら、―――くそ、写真とらせておくんだった」

「無理でしょう。それより、監視カメラとかいうもので、記録から探した方がよくはありませんか?」

「…ご協力ください。モニタみるの、おれも手伝いますから」

「僕が解剖できなくてもよろしいの?」

「―――絞ってからお持ちしますんで」

がっくり肩を落としていう権堂に白々と。

「では、僕は解剖に参りますね?千枚くんは控え室にはいません。既に、僕が手配したホテルに移しています。…―――ですから、控え室を当たった方がいいと思いますよ?」

「――――おい!見つかったか!…え?つまりそれは?」

権堂を感情のみえない眸で橿原が振り向いて。

 立ち止まった橿原の感情の読めない眸に、情けない顔の権堂がいう。

「先生、はっきりいってください!」

「当たって無くてもしりませんよ?」

「かまいませんから!どうして控え室なんです?」

白髪長身細身の紳士、橿原が手に外套を綺麗に持って、少し首をかしげて権堂を見返していった言葉に。

 蒼醒めた権堂が、叫ぶ声がホールに響いた。



「…音響が良いですねえ、…。コンサートの中止は、本当に残念です」

そういうと権堂に背を向けてホールを出て解剖に向かう橿原の背を。

 灰白色のパーカーに白灰に汚れたジーンズという目立つ衣装にグレイジーンズの帽子を目深に被った人物――岩田と名乗った中高年の男が、凝っと見つめていた。




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