First Contact 感染症専門医神尾の事件簿――indigenous flora――

高領 つかさ (TSUKASA・T)

1 プロローグ


プロローグ 



 オケ合わせの音が音楽堂のパイプオルガンを背に美しい音色を響かせ始め、微かなざわめきとともに期待が満ちる。

そのとき、三階席にあるホールの両側にある演奏者達を真下に近くみることのできる席の、壁沿いにある右側に着こうと歩いていた人が、ふらりとよろめいた。

丸首の灰白色のセーターにスラックスの男性が、後に目撃者の証言によれば、セーターの首許を引き掻くようにして、苦しそうに顔を歪めたのが見えたという。

「キャア――――……!」

 ドサッ、と大きな重い物が落ちる音がホールに響くのと、悲鳴はほぼ同時だった。

 三階席から転落したのが人間であることに。一瞬ホールが静まり返り、そして。

 悲鳴、落下した人を遠巻きに見て動けなくなっている人々。

 凍りついたように、音がやむ。

 瞬時、音楽堂は無音が響く中にいた。

 そして、誰かが。

 衣擦れの音か、それとも悲鳴か。

 沈黙を破る音がして、その瞬間。

 怒号と、騒めきと悲鳴、息を呑む音までもが、ホールの音響に混ざり合い、混乱の中に音楽堂は叩き込まれていた。






 1



「付き合ってもらって悪いな、神尾」

「いえ、それにしても、滝岡さんに音楽を聴く趣味があるとは思いませんでした。それもクラッシックで」

小さなコンサートホールの壁際にある、出入口に近い席に着きながら謝る滝岡に、神尾が面白そうに滝岡をみて応える。

 それに苦笑して。

「秀一に押しつけられたんだ。偶には、にいさんも仕事を休んで音楽とか聴くといいよってな。あいつもまた、誰かに貰った券なんだろうが」

「確かに、仕事を休むのは必要ですね。そうでないと、今日もまた病院に戻っておられたでしょう?」

「…―――休日なんだ。そうそう病院にばかりいるわけじゃないぞ?家にいることだってあるじゃないか」

「緊急呼び出しにすぐ出られる状態で、病院から近いご自宅にですね」

「――――神尾、…」

いいながら、滝岡が掌に病院からの連絡がわかる小型タブレットをみる。音声は切られているが、緊急呼び出しには微かな振動とサインでわかるようになっているそれを確認している滝岡に神尾が笑う。

「おい」

眉を僅かにあげて、苦い顔を作ろうとしながらいう滝岡に神尾が楽しそうに微笑む。

「どうにもダメですね。仕事は忘れられませんか」

「おまえこそ、ウイルスとかが来たら一緒だろうに」

「有難いことに、いま感染症で緊急を要する患者さんはいませんから」

「それに、広域で流行している感染症もな?」

「はい。」

にっこり、きっぱり穏やかに微笑んで返す神尾は、滝岡が勤める滝岡総合病院の感染症専門医。

「おれも、いまの処は急を要する患者さんはいないんだがな」

対して困ったように周囲を見る滝岡は、同じく滝岡総合病院の外科医なのだが。

入り口に近い席に座り、正面にパイプオルガンが煌めきを光に返す美しいホールを見渡してから、滝岡が息を吐く。

「悪いが、何かあったら出られるように此処の人達にも頼んであるんだが」

困ったように神尾を見返る滝岡に、面白そうに見返して。

「おまえは俺が呼び出されても来なくていいぞ」

「行きますよ。搬入された患者さんが、感染症に感染していたらどうするんです?」

「――――はじまるな」

視線を逸らして、三階席の右側、壁に張り付くように造られた二列席の壁側、入り口すぐの席で姿勢を正して。

 見下ろせる演奏者達に、席に着く様子を興味深げにみてから、気が付いて周囲と同じように拍手をしようとして。

「―――神尾」

掌にポケットから取り出したタブレットを見て滝岡が視線を厳しくする。

 背の高さに対して細身だが鍛えている滝岡が、しずかに音を立てずに席を離れようと腰を浮かしながら内容を見て確認して。

「神尾」

抑えた声で滝岡がもう一度いう。それに神尾が、そっと席を立ちうなずく。

 入り口を音を立てないように開け、結局、滝岡と神尾は、演奏会を聴くことなく音楽堂を離れて、緊急呼び出しの手術に対応する為に急いで病院へと向かっていた。



 それで、何事もなく―――つまり、その後起きた転落死にも関わることもなく。

 それで終わっていたはずなのだか。―――

 何故か。



 


「それで、おまえはまた容疑者になったのか、…」

 何ともいえない表情で滝岡が向き合う神尾を見る。

 処は滝岡総合病院外科オフィス。

 神尾といえば、おとなしくくちを噤んでいれば、人形のようだといわれる美形ではあるのだが。大人しく涼しげにみえる容姿と違って。

 困り果てて見返している滝岡に対して、神尾がにっこりと微笑むと明るい黒瞳で。

「はい、先日の音楽ホールでの騒ぎで」

「…俺達が、緊急呼び出しで出た直後に、前の三階席から転落した方がいたそうだな」

眉を潜めていう滝岡に、神尾が肯く。

「――直近でしたからね。可哀想に、その方はその場で死亡が確認されたようですが」

「…直近にその近くにいたからといって容疑者になるな、おまえは、…――いや、もう慣れたが」

「慣れないでください」

額に手をあてて溜息を吐く滝岡に、神尾の背後にいる人物から即座に突っ込みが入る。

「西野」

滝岡が情けない顔で見返すのは、滝岡総合病院の医療用コンピュータ他システムを一手に握り管理する西野。滝岡の医療秘書でもある西野は、この滝岡総合病院では、誰も逆らえない存在だといわれているのだが。

 容姿だけみれば、これまたかわいらしいといわれかねない西野だが。

「…滝岡先生。いいですか?いくら神尾先生が殺人事件の容疑者になるのが、今回が初めてではないとしても、慣れないでください」

「いや、しかしだな、…」

口籠もる滝岡に、長身の滝岡よりは背が低いが、こちらも本来身長は高い方である西野が、眼鏡越しにきちんと睨み付ける。

「滝岡先生」

「すまん」

情けない顔で見返す滝岡に、背後からあきれた声が掛かった。

「おまえな、…。まあ、神尾さんもだけどな。どーして、こう殺人現場と縁があるんです?」

「関」

振り向いた滝岡が見あげるのは、長身に黒いスーツに強面の人物。やせ形に般若のようともいわれる容姿の関に対して、情けない顔のまま滝岡が対する。

「そうはいってもな、…今回、コンサートのチケットを寄越したのは秀一だぞ?間違えば、巻き込まれていたのは、―――…秀一は大丈夫か、関?」

「――――おまえの過保護には頭が下がるがな?」

チケットを譲られたのが秀一からだということを思い出して、途中から心配そうに関を見返してくる滝岡に、しばし沈黙してからほとほとあきれたように関が返す。

「その席にいたからといって、…―――まあ、調べてはおくが、事件の容疑者になったのは神尾さんの人徳で、あいつの場合は関係ないだろう」

「関さん、それが僕の人徳というのは、どうもその」

困惑した表情でくちを挟む神尾を振り向いて、関がしみじみと無言で見返す。

「関さん?」

「――いえ、おれは神奈川県警に勤めて長いですが、…。どうして、近所に住む人物が、こうして幾度も殺人事件の容疑者として関わってくるのかいま考えてた処です。…滝岡、おまえ、本当に色んなものを引き当てるよな?」

「――おれのせいか?」

驚いて滝岡がみるのに、関が神尾をしみじみと見たままで云う。

「勿論だ。おまえに決まってる。というわけで、本来関係者というか、―――。まあな、…。こいつの幼なじみでもあるおれが、あなたの調査とか色々事件に関わる訳にも本来はいかないんですが」

困り切った風に般若風の顔を向けて、関が嘆息しながら続ける。

「――本部に、いわれましてね。あなたのお守りをしろと。おれは殺人事件の捜査を専門としてますが、…――。過去を、つまりあなたが過去に関わった事件を鑑みて、特例として、おれをつけて、―――おまえと一緒に監視しろということだ。わかったか、滝岡」

いいながら途中で振り向いてかなりぞんざいな口調になっていう関に滝岡が眉を寄せる。

「何がどうしたんだ?監視?おれをおまえが?」

「そうもなるだろう、…―――。第一、おまえたち、一緒に住んでるんだろうが」

あきれた風にみていう関に、滝岡が何か抗議する前に神尾がくちにする。

「僕が、感染研から出向している間、滝岡さん家に住まわせてもらっていますからね」

「しかも、おれの家の隣だしな、…――」

神尾の言葉に関が頷いて靴先を睨むようにみる。困惑したまま滝岡がその関に問いかける。

「いや、それでだから、どうしておれをおまえが監視することになるんだ?」

「どうせ一緒にいるんだ、セットで監視しておいた方がお得だろう」

「おまえな?それは一体どういう理屈だ、あのな?そもそも監視とはどういうことだ」

「だから、神尾先生がいつものように、というか、これまでのように事件に関わってきた際の保険だ。わかれ」

真顔で正面からみていう関に、滝岡が思わず詰まって応える。

「―――――…いや、その、すまん」

「おまえに謝られてもな、…神尾先生?」

胡乱な顔で滝岡から神尾に視線を振り向ける関に、不思議そうに神尾が見返す。

「僕がかかわるんですか?」

「―――そもそも、どうして今回も容疑者になったか、理解しておられますか?神尾先生」

難しい顔で見返すと印象がより怖い関を平気で見返して、神尾がまだ不思議そうに首をかしげる。

「と、いわれましても、…。僕は特に何も、今回だって何もしていませんよ?」

「―――滝岡、何故おまえはまたこれを引き受けた?」

「引き受けたのはおじさん、――院長だ」

「けど、おまえも責任者だよな?院長代理」

「その通りだ、――すまん」

「どうして滝岡さんが謝るんです?」

微妙な会話をしていた二人が、神尾の発言に同時に振り向く。

 その無邪気な、一見涼しげな武者人形とも侍人形ともいわれるような神尾の美形を見返して、関が溜息を吐く。

 滝岡がしみじみと神尾をみて。

「すまん、関、――。」

「いや、まあな」

短く答えて黒いスーツのスラックスのポケットに行儀悪く手を突っ込んで沈黙する関に、西野がコンピュータに向き合いながら仕事をしていた手を止めて、しみじみとみる。

 滝岡総合病院外科オフィス。

 どうやら、関係者以外が立ち入ることも多いオフィスだが。

 その場で、滝岡総合病院外科オフィスの責任者であり、滝岡総合病院院長代理でもある滝岡と。

 神奈川県警の刑事である関に。

 医療秘書の西野の視線が向く先で。

「どうされました?」

いかにも一見涼しげで無害な神尾が問いかけるのを。

 しみじみとかれらは見返して。



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