白い封筒

玉梓

白い封筒


階段を上がると、錆びた灰色の扉の向こうに濃紺の空が見えた。何度も下見に来ているので、扉に鍵がかかっていないことも、日没から少し経ったこの時間、ここに来る人はいないこともわかっている。


 僕は扉を開けようとして少し躊躇い、ポケットからスマホを取り出した。白い画面が暗闇に慣れた目を射る。僕は階段に座り込んでメモアプリを開いた。何か書いておこうとして手が止まる。何か言い遺しておきたいはずが、何も書けない。何から書けば良いのか分からないという迷いとは違う。書きたいことがないわけでもない。言い遺しておきたいこと。遺言。遺書。果たしてそれは何なのか、誰に対して言いたいのか。形のないもやもやとした主張が僕の中で渦巻いている。


 結局、僕は白紙のメモを開いたまま、屋上の扉を開けた。紺碧の夜空と誰もいない古びたコンクリートの床が広がっているはずが、そこには予想外の先客がいた。


「やーっと来たね。」


校則通りのプリーツスカートをひるがえして彼女は振り向いた。いつもはきっちりと束ねてある黒髪が自由になびいている。


「帰っちゃうかと思ったよ。」


彼女は心底楽しそうに笑っている。


「……春夏冬撫子」


品行方正、成績優秀。教師からの評判は良い、クラス一の優等生。僕は思わず回れ右をして帰ろうとした。


「帰っちゃうの?」


彼女は手すりにもたれかかってまた笑う。僕はむっとして言い返した。


「優等生だろ。こんな時間に出歩いてていいのか?」


彼女の笑顔が少し曇った。


「君も優等生がお望みなんだ。」


優等生を優等生と呼んで何が悪い。戸惑った僕は扉にかけていた手を下ろした。


「優等生の何が気に入らないんだよ。褒め言葉だろ。」


「だって、私そんなに出来た人間じゃないから。」


彼女はスカートの端に何かを覗かせた。飾り気のない白い封筒には黒々とした隅で二文字の漢字が書かれている。


「これでも、優等生?」


撫子の顔に笑みは無かった。


「冗談キツいよ。」


僕は無理矢理笑って言った。しかし撫子は笑わない。教師のどんな寒いギャグだって笑ってやる撫子が今は笑わない。きっと冗談ではない、本気だ。


「ちょっとお話しようよ。」


彼女は手すりを背にして座り、自分の隣に座るよう促した。


 「何話そうか。」


辺りは既に真っ暗で、お互いの顔はよく見えない。その分、月のない夜空の星はとても綺麗だ。


「君は何で来たの?」


彼女はいきなりデリケートな質問をぶつけてきた。いきなりでなくてもそんな質問、するべきじゃない、と僕は思う。彼女はふふっと笑う。


「バスで来たって言っておけばいいじゃない。」


「とんちかよ……。」


でも、答えないよりは気まずくならないと思うよ。だけど、聞きたいのはやっぱり理由かな。」


少し迷ってから僕は話すことにした。この形のない主張をすぐにでも吐き出してしまいたかった。


「はっきりした理由じゃないけど……ここに居場所がない気がして。」


「居場所、ねぇ……。漠然としてるね。」


「はっきりした理由じゃないって言ったろ。」


「そういえばそうだったね。」


「お前はどうなんだよ。」


「私?」


彼女は笑いながら考え込むような仕草を見せる。


「……制服が重くなったから。」


一キロにも満たないだろう制服がそんなに重いのだろうか。僕の表情を見て撫子はニヒルな笑みを浮かべる。その表情は僕に「そんなことも分からないの?」と言っているように思えて、僕の暗い気持ちはさらに暗くなった。


「どうせ僕は……」


そこまで言って僕は目を閉じた。小学校三年生の夏の記憶がよみがえる。




 あの日は花火大会の日だった。それまで仲の良かった友達と喧嘩をした。暗い気持ちで家に帰ると単身赴任していた父が久しぶりに帰宅していて僕の部屋の中に立っていた。怒りに震える手には隠していた〇点のテストが握られていた。


 父の怒鳴り声は遠くから聞こえ、母の落胆した表情はぼやけて見えた。そして、腹に響く花火の音だけが妙に鮮やかだった。


 その日を境に僕の評価のレッテルは劣等生に張り替えられた。


 「何でこの学校に入ったの?」


僕は彼女に尋ねてみる。別段深い意味はない。ただの好奇心だ。


「え?」


「だって、県外のもっと難しいところとか目指せそうなのにどうしてかなって。」


撫子はまた笑った。


「私、成績良くないよ。」


「え?」


今度は僕が聞き返す番だった。


「順位三桁だよ。ここに来たのもちょっと後悔してる。」


意外だった。博識だって噂されていたのに。僕の心を読んだかのように撫子は言う。


「意外?だろうね。知っているふりをする努力はしたからさ。」


何故か得意げに撫子は笑っている。


「でもそれって嘘、なんだよ。だんだんそれがひどくなって、相手の望むことを言うようになって、今はもう本当が分からないんだ。」


そんな自分が嫌になった、と彼女は言った。


「こんな制服も着ているだけで、頭がいいって思われる。だんだん優等生の型に閉じ込められていくみたい。」


だから、今日ここに着てきた。小さな復讐として。


 彼女はスッと立ち上がる。


「じゃあ、行こうか。」


その顔は門出の日のように晴れやかだった。




 「あなたたち、何してるのっ!」


懐中電灯の光が眩しくて、目を細める。そこにいたのは彼女の母親と僕たちの担任教師だった。


「時間ぴったり。」


横で撫子が小さく笑ったのを見たのは僕だけだった。


 それから二人揃って怒られて、帰る前に撫子は白い封筒を押し付けてきた。


「これ、あげる。」


封筒に文字は書かれていなかった。




 カウンセリングや説教がひと段落した一ヶ月後、撫子の机に白い花が備えられた。反省して、周囲がこれで一安心、と気を抜いた隙に、あのビルから飛び降りたという。


 白い封筒は未だ封を切られぬまま、机の引き出しに眠っている。


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白い封筒 玉梓 @tamazusa_fox

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