第8話 夜鳴く人形(3)
それから数日、ボンドは自宅でゆっくりと過ごしていた。
一方の私はといえば、英語教師としての職務に戻ったものの、頭の片隅にはどうにも島田家の事件が巣食って離れなかった。授業中にふと物思いに沈み、黒板を前にして我知らず黙り込むことさえあったほどである。何度か同僚に心配され、苦笑でごまかすこともあった。
あの人形にはどのような秘密があるのか。ボンドは樟脳を使って何を発見したのか。それが気にかかった私は、居間で英字新聞を読んでいたボンドに何気ないふりを装って声をかけた。
「そういえば、あの件はどうなったんだい? 島田家のさ」
私の問いにボンドは紙面から目を外さずにこう答えた。
「いよいよ、日本は清国と事を構えるらしい。英国でも戦時債が売買されているようだ」
「ああ……そう。そうか……」
肩透かしを食らった私はテーブルの上のお茶をすする。すると、新聞紙を畳んだボンドがいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「気になるかね?あの人形の謎が?」
「え?そ、そんなことは……いや、気になるよ」
あっさりと私の真意を見抜いたボンドは、もう一つの茶碗を取り上げた。
「自分の茶を飲み干したうえ、僕の茶まで口にしている。君の心ここにあらず、というやつだね」
「あっ」
私は慌てて茶碗を置いた。背後でセツがくすくすと笑い、すぐに私の茶を注ぎ足してくれた。
ボンドは新しく淹れられた茶をすする。その所作の静けさと品の良さには、もはや英国紳士というより日本の文人の趣さえあった。
「緑茶の味が分かるようになってきたよ。これは実に香り高いね、ミス・セツ」
「いえ、それは安い茶葉ですけれど……」
「ふむ、値段と風味は必ずしも比例しないものだ」
恐縮するセツを横目にボンドがまた茶をすする。私は待ちきれずに質問を続ける。
「島田家はどうなったんだい?あれから進展は?」
「ああ、そうだったね。今夜行ってみようと思うんだ。犯人の警戒も解けた頃だろうからね。一緒に来るかい?」
ボンドの言葉に私は何度もうなずく。セツはそれをおかしそうに口元をおさえて見ていた。
「ミス・セツ。そういうわけで今夜の夕食はキャンセルだ。我々は少々、夜風に当たってくる」
ボンドがそういうとセツは心得顔でうなずいた。私はと言うと、また彼の冒険に同行できることの喜びに、年甲斐もなくわくわくしていた。
※ ※ ※
柴柳氏には連絡もせず、我々は馬車を雇い島田家へ向かった。
黄昏の多摩の街道は、冬枯れの並木が煤けた灯火のように立ち並び、馬の蹄が舗装石を打つ乾いた音だけが響いていた。
私は、どうしても胸にひっかかっていた疑問を投げた。
「あの人形は結局なにもなかったんだろ?」
「そうだね。あれはただの人形だよ」
ボンドは何でもないように言う。私はそれを聞きつつ、正面に座る男を見た。
四角い顎と鋭い目の日本人だ。椛島警部に紹介された警視庁の警部補で、名前を寺島忠次郎という。
「椛島さんからは協力するように言われとりますけど、島田家とは……」
「有名なのですか?」
私が聞くと寺島がうなずいた。
「豪農でもある家ですが、ここ数年は医薬品でだいぶ儲けとるとのことです。輸出商へ薬材を売りさばいておるとか」
「なるほど、興味深いね」
ボンドがうなずく。寺島は今ひとつ乗り気ではない顔で我々を見ている。
「政府の高官にも知り合いがいるとのことですから、あまり無茶はやめてくださいよ」
「安心したまえ。私はいつでも常識的で、控えめな人間だ」
思わず私は咳払いをした。ボンドの言う「控えめ」ほど信用ならぬものはない。
「そろそろかな」
「見えてきましたな」
私が首を伸ばして前方を見ると、赤々と燃える空の下に、島田家の屋形が姿を現した。
それはまるで両手を広げた巨大な影のように、我々を待ち受けているかのごとく見えた。
※ ※ ※
「いきなり来て何なのですか!」
抗議する孝作氏を無視して、ボンドは島田家へあがりこむ。その強引なやり方に寺島警部補は真っ青になっていた。
「刑事さん!これはどういうことですか?」
「あ、の……ほ、本官は……」
戸惑って寺島警部補は私にすがるような視線を送る。私はあえてそれを無視して、ボンドの後に続いた。
「き、貴様ら!」
「一刻を争うのですよ。お兄さんの部屋に人形を飾っているのでしょう?」
「そ、それをどうして」
孝作氏が言葉を詰まらせる。硬直する彼をしり目にボンドは廊下を歩いていく。
「何事ですか?」
「……まったく次から次へと」
ふすまを開けて姿を見せたのはシノ女史であった。厳しい表情を見せる彼女と向き合い、ボンドは不機嫌そうにそう呟いた。
「あなたの息子を救うためですよ。――いや、正確には“義息子”と言うべきでしたか」
「なんという無礼を……!」
シノ女史が呆気にとられていると、後ろから孝作氏が追い付いてくる。
「もう我慢できん!刑事さん、正式に抗議させてもらいますからな!」
「そ、それは……」
寺島警部補が悲鳴のような声をあげる。するとボンドがこちらに向かって歩き出し、孝作氏の前に立った。
「な、なんだ。貴様」
「兄を救ってやろうと言うのだよ。それを邪魔するにはどんな理由があるのだ?」
「う……」
孝作氏が声を詰まらせる。すると、シノ女史が大きく息をつく。
「仕方ありません。孝作さん、ご案内しなさい」
「し、しかし……」
孝作氏が言葉に詰まる。シノ女史はボンドと私に一礼して、自らの部屋に戻っていった。
その後ろ姿を見つめ、ボンドは何故か口を歪めるように笑っていた。
※ ※ ※
「さて、あなたを救うとしましょうか」
ボンドは横臥する真作氏に声をかける。彼はすがるようにボンドを見上げ、その視線を受けてボンドが優しく彼の手を握ってやる。
ボンドは床の間にある人形を見つめる。箱から取り出され、飾られた人形は愛らしさなどなく、ただ不気味さだけが際立っていた。
「なぜ、飾ったのです?」
私が聞くと、真作氏は目だけをこちらへ向けて、弱弱しくつぶやいた。
「親父の形見なのだ。これを当主の床の間に飾るのが家のしきたりだと……」
「お母上……シノ様が?」
私の言葉に真作氏が口をゆがめる。
「孝作だ。オレは親父が芸者に産ませた子でな。ここに来たのは10年ほど前だ。孝作は女中に産ませた子なので、幼い頃からここで暮らしていた。家のしきたりはアイツに聞いた」
「なるほど」
ボンドは人形を手に取る。後ろにいた孝作氏が小さく声をあげる。
「思った通りだ。これは先日見た人形ではない」
「え?」
私が声をあげ、真作氏も目を見開く。孝作氏は寝室外の廊下で膝をつき、顔をふせている。
「あの時、人形を見せてもらった時に小さな目印をつけていたのだよ。この人形にはそれがない」
そう言うとボンドは人形の襟元を見せる。そこには何も存在してなかった。
「犯人は私が見ることを見越して別の人形を用意していたのだ。人形を恐れる真作氏は触ることはないが、私は遠慮なく調べるからね」
そう言いつつ、ボンドは人形の服を脱がせる。すると中から見慣れない機械が姿を見せる。
「それは?」
「蓄音機だ。人間の声を蝋の管に刻み、それを再生するのだ。本来はもっと大きいのだが、これはかなり小型化している。おそらく1~2秒程度しか再生できんだろう。例えば、誰かの声の一節だけとか」
そう言うと、ボンドは裸にむいた人形の背中を操作する。すると、人形から不気味なうめき声が聞こえた。
「そ、それだ!この声だ!」
真作氏が体を起こす。ボンドは人形を渡して、その視線を孝作氏へ向ける。孝作氏は顔を伏せたまま、肩を震わせている。
「しかし、夜だけ声を出すのはどうするんだい? ゼンマイ仕掛けではすぐに声が出る。あ、何かを挟んでおくのか!」
私がそういうとボンドが首を縦に振る。
「そう。それも時間経過で気化する物体でないと意味がない。氷では長時間もたないし、水が残るからね。それであなたが目を付けたのはショーノーというわけだ」
ボンドは真作氏より人形を受け取り、背中の部分を外した。すると濃厚な樟脳の香りが部屋に広がった。
「粉末のショーノーを歯車部分に詰めておく。すると数時間後にショーノーが気化し、蓄音機が作動すると言うわけだ。まったくよく考えついたものだ」
「ちくしょう!」
その説明の最中、孝作氏が突然立ち上がり、廊下へ逃げ出した。
ボンドは即座に人形を投げつけ、正確に彼の後頭部を打ち抜いた。孝作氏は倒れ、人形は粉々に砕け散った。
「ああ!」
驚きの声をあげる真作氏にボンドや冷静な声で言い放った。
「呪いというものは、壊してしまうに限る。――この家に必要なのは、恐怖の偶像ではなく、少しの理性だ」
彼はゆっくりと立ち上がり、真作氏の肩に手を置くと、私の方を振り返った。
「行こう、ワト……ハーン君」
その横顔に、私はあの独特の安堵と倦怠とを見た。
そして思う――彼の推理はいつも冷徹だが、その裏には、人知れぬ慈悲が潜んでいるのだと。
※ ※ ※
その後、事件は寺島警部補の管轄に移り、やがて孝作氏の自白によって幕を閉じた。彼は、財産への執着と、腹違いの兄が突如として当主の座に就いたことへの反感とから、あの卑劣な計画を思いついたのだという。
父の遺品の中から、古びた人形を見つけたのが発端であった。心身ともに脆弱な真作氏の性質を熟知していた彼は、それを利用して、兄を神経症の淵に追いやった。兄が病院に収容されれば、自らが家督を継ぐ算段であったらしい。
「恐ろしい事件だったね。腹違いとはいえ、兄を病気にしようとは」
茶を飲みながら私がつぶやく。ボンドは窓の外を見つめていた。冬の曇天が、彼の横顔に鈍い光を落としている。その表情は、いつもの皮肉めいた落ち着きを超えて、どこか憂いを帯びていた。
「よく気付いたものだ。さすがは神通力のボンド先生」
そういうとボンドは苦笑して首を振る。
彼は小さく笑みを浮かべ、ゆるやかに首を振った。
「いや、私の功績ではない。ミス・セツがショーノーを持っていたおかげで、実験が可能になった。それに尽きるさ。感謝すべきは彼女だ」
「そうか。さすがはセツさんだね」
それきり、ボンドはしばし沈黙した。彼の沈思があまりに深かったので、私はつい問いかけた。
「どうしたんだい? 事件は解決したんだろう?」
「この事件の犯人は孝作氏だ。それは間違いない。しかし、本当にそれだけなのかと思ってね?」
「どういうことだい?」
ボンドは寺島警部補から届いた手紙をテーブルの上に置く。それには孝作氏の逮捕と、その後の島田家のことが書いてあった。
「真作氏は家を出たらしい。嫌な思い出の家に住みたくないと言って、別邸で暮らすそうだ。まあ、それがいいだろうね」
そこまで言ってボンドは意を決したように私に向き合った。
「今回の事件、本当に孝作氏一人だけで計画を立てたのだろうか?」
「え?」
驚いた私はボンドに聞き返す。
彼はパイプを取り上げ、静かに火を灯した。
「孝作氏が犯人であることに疑いはない。しかし、あの男が独りで計画を立て、あの仕掛けを思いついたとは到底信じがたい。ショーノーの性質、人形の構造……あれを操るには、保存と装飾に通じた人物の助けがあったはずだ」
「まさか、シノ女史が」
私は思わず声を上げた。あの厳格で冷たい面立ちの婦人の姿が脳裏に浮かんだ。
「彼女が計画持ちかけたわけじゃあるまい。おそらく、断片を孝作氏の目の前に並べてやった。そして、それをあの男が繋げて犯罪を実行した。私にはそう思えるんだよ。証拠はないがね」
「しかし、何のために?」
「理由はひとつだ」
ボンドは目を細めた。
「彼ら兄弟は彼女の実子ではない。己の血を引かぬ者が島田家の当主となることを、彼女は到底、受け入れられなかったのだろう」
部屋の空気がひときわ重くなった。ボンドは紫煙を天井へと吐き、わずかに笑った。
「妖怪でも祟りでもないさ。恐ろしいのは、それらを生み出す人間の心の闇なのだよ」
私は返す言葉を失い、ただ冷めきった茶をすすった。その味は、まるで事件の残滓のように、苦く舌に残った。
夜鳴く人形(完)
<作品解説>
どうも作者です。トリックって考えるの難しいですよね。
今回のイメージは「金田一」です。本陣で和室の密室といえば本陣殺人ですよね。
最近セツさんが可愛いです。ということで次なる物語ではセツさんとボンド先生がコンビを組んで事件に挑みます。
次回「雪女」。よろしくお願いします。
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