第7話 夜鳴く人形(2)
多摩の地は、東京郊外とは思えぬほどのどかであった。田と畑がどこまでも続き、冬枯れの林が点々と散在している。風は冷たく、土の匂いがかすかに鼻を打つ。私たちは柴柳氏の案内で馬車を走らせ、やがて島田家の門前にたどり着いた。
我々の到来は、この静かな農村に小さな波紋を投げかけた。珍しげに馬車を取り囲む農夫たちの顔は、日焼けの下に複雑な色を浮かべていた。
横浜での外国人に対する奇異の視線は慣れているが、こういった農村に来るとその視線はまた違ったものになる。都市では物珍しさが勝っているが、こういった場所でそこにもう1つの感情が加わるのだ。
それは単なる好奇心ではない。彼らのまなざしの奥には、異邦人に対する根深い「畏れ」が潜んでいた。横浜や東京で浴びる視線が“珍客”への興味であるとすれば、ここではむしろ“異形”を見る眼差しである。
「田舎のことですから……お気になさらず」
柴柳氏は愛想笑いを浮かべ、我々を先へ促す。
ボンドは群衆にちらりと一瞥をくれると、唇の端をわずかにゆがめ、鼻を鳴らしてさっさと屋敷の方へ歩き出した。
「これはすごいな」
「うむ、見事な日本建築だな」
島田家は立派な旧家であった。手入れの行き届いた庭に池と松があり、建物は分厚い茅葺の屋根をいただいている。質素ながら、威厳と古色を湛えた構えだ。
「地方諸侯が宿舎にしていたのも納得だね。ホンジンだったか」
「うん、昔は東京に地方諸侯が定期的に居住するルールがあったんだ。その道中で泊まる場所がこういった所というわけさ」
ボンドは庭や建物の外観を観察する。
「あの屋根から侵入は容易だろう。屋根伝いに離れまで行けば簡単に侵入できるのではないかね。ハーンくん、キミが以前話してくれた身軽なスパイを使うのだ」
「忍者だよ。彼らが活躍していたのは何百年も前の話だし、極めて閉鎖的な組織だと言うよ。気軽に雇えるとは思えない」
そんなやりとりをしながら、我々は島田家の玄関までやってくる。そこには六十ほどの身ぎれいな老女と、洋装に身を包んだ三十がらみの男が待っていた。
「柴柳さん、まさかこんなに早く連れてくるとは思わなかった。よくやってくれましたな」
「実はこちらの……ボンド氏がすぐに行こうとおっしゃいましてね。私も驚いている次第です」
三十がらみの男が柴柳さんと言葉を交わす。すると老女が不審げな視線をこちらに向けつつ、口を開いた。
「大丈夫なのですか?こんな怪しい外国人に頼んで」
「奥様!」
柴柳氏がこちらを見て慌てだす。老女はおそらくこちらが日本語を解さないと思っているのだろう。
「ああ、お気になさらずに」
ボンドが流暢な日本語で彼らに声をあげる。老女は顔を真っ赤にして、深々と頭を下げた。
「も、もうしわけございません」
頭をさげる老女を男のほうはやや冷たい視線で見ている。その様子から彼らにも何かしらの事情があるのは見て取れた。
「私はジェイソン・ボンド。こちらは友人のラフカディオ・ハーン先生です」
帽子のつばをつまんでボンドが挨拶をする。恐縮した老女はさらに頭をさげるが、ボンドは顔をあげるように促した。
「胡散臭い外国人が突然来ては警戒するのも仕方ありません。しかし、こう見えてもハーン先生は立派な教育者でもあるのですよ」
「胡散臭いのはボクなのかい?」
私は驚いてボンドに聞き返す。それに何も答えずボンドは当主の真作氏の待つ居間へと案内されていった。
※
旧家らしい広い居間には、やせ細った和服の男が座っていた。島田真作氏である。
顔色は当然よくない。奇妙な声に悩まされ、日々眠れないのはボンドではなくとも一目でわかった。痩せて眼ばかりが大きく見えるその風貌はシャレコウベを思い起こさせる。
「アンタらが神通力の外国人か」
脇息に身を預けた真作氏がボンドと私を見比べる。我々は畳の上に座り、お互いの顔を見合わせる。
「違うのか?柴柳がそう言っておった」
「ああ、それは……」
私が言い訳をしようとするとボンドがするっと前に出る。
「おっしゃる通りです。神通力かどうかはわかりませんが我々にはこの世の不可思議なものを見通す力があります!」
「おお……」
真作氏が希望に満ちた表情になる。そして、横合いに座る三十路男と老女もかすかに鼻をもらす。それをチラリと見たボンドは表情を変えずに真作氏へ語り掛ける。
「奇妙な声が聞こえるそうですな?」
「ああ、そうだ。……声が……声がするのだ」
骨と皮ばかり手で空中をかきむしるようにしながら真作氏が怯える。ボンドは真剣な顔でじっとその様子を見ていた。
「その声はどこから聞こえるのです?天から?それとも地の底から?」
「人形だ」
真作氏の眼がギョロリとこちらを見る。その言葉を聞いたボンドの眼がキラリと光る。
「どういう人形なのです?」
「変哲もない人形だ。床の間に飾っていたのだが、夜な夜な声を発するのだ。木箱に収めても鳴く。恐ろしい、恐ろしい。孝作……」
真作氏は手で何かの合図をする。三十路男が立ち上がると真作氏の横にあった白木の箱をこちらの前へと持ってくる。どうやら、彼が真作氏の弟・孝作氏らしい。
「これが兄の部屋にあった人形です。今は木箱に収めているのですが、夜になると鳴き声が聞こえるので床の間に戻したほうがいいのではと……」
「ほう……失礼」
ボンドが木箱を受け取り、蓋をあける。真作氏がヒィッと怯えた声をあげるのを無視して、中から人形を取り出す。
中から現れたのは――美しいがどこか不気味な女児の人形であった。
白磁のような顔、黒々とした髪。無垢とも冷笑ともつかぬ表情が、奇妙に生々しい。
ボンドはそんな不気味な様子の人形を一切恐れることなく、その裾をめくりあげる。それを見た老女がムッとした顔になり、コホンと小さく咳払いするものの、あのボンドがそんなことを気にするはずがない。
「普通の人形ですな……」
「何度も調べたのだ。当然だろう。だが、この人形が鳴くのだ。夜更け、寝所で必ず聞こえる。最初は獣かと思った。だが……あれは人の声なのだ。しかも――死んだ親父の声だ」
真作氏が孝作氏を見つめる。孝作氏はややきざったらしい仕草でこちらに向き直る。
「私がすみずみまで調べました。先生ほど大胆ではありませんがね」
「ほう、あなたが?実に興味深い」
孝作氏をボンドがじっくり見つめる。孝作氏は愛想の良さそうな笑みを消し、無表情になっていった。
「この匂いは……」
ボンドは不意に鼻をひくつかせる。私もその言葉に初めてある匂いに気づいた。
清涼感のありながら、刺激的な匂いが鼻孔をくすぐる。ボンドがしきりに人形の服をかぐのを見て、老女が眉を顰める。
「あ、あの、すいません。あのご婦人は?」
小声で柴柳氏へ聞いてみる。すると柴柳氏は今気づいたようで顔を青くする。
「ああ、私としたことがお教えしてませんでしたね。あの方は島田シノ様です。島田家の御先代の奥方様で、お二人の義理の母にあたります」
「義理の?」
私がそういうと柴柳氏はさらに声を低くする。
「真作氏も孝作氏も御先代が他の女に産ませた子でして……」
「ああ……なるほど」
納得した私は再びボンドのほうへと視線を戻した。
「この匂いはなんでしょう?ペパーミントをもっと刺激的にしたような……」
「おそらく樟脳でしょう。虫除けに着物と一緒に入れることがあるものです。箱の中にしまうときに一緒に入れていたので匂いが移ったかな。何しばらくすれば消えますよ」
「なるほど、防虫剤ですか」
ボンドはそういうと人形を箱の中へ戻す。真作氏はすがるような眼で彼を見つめていた。
「ど、どうなのだ。何かわかったのか?」
真作氏の問いにボンドが首を左右にふる。真作氏はそれを見ると肩を落として、顔色をさらに悪くする。それを見たボンドが声を一段大きくして話し出す。
「寝室をお見せくださいませんかね?私の経験上――“声を発する人形”には、必ず理由があります。寝所を見せていただけますか?ハーンくん、キミも来るだろう?」
真作氏は孝作氏やシノ女史へ視線をやり、仕方ないと言った風情でため息をついた。
※
当主の寝室は、母屋から少し離れた小さな建物であった。もとは茶室だったという。
狭いながらも整然としており、畳の上には文机と数冊の書物、夜具がきちんと畳まれている。
「いや、見事なものだ」
ボンドは部屋をぐるりと見回し、感嘆の声をもらした。
「狭い空間に無駄なく機能を詰め込む――まるで論理的思考の具現化だ。ああいう金持ちはバカみたいに広いベッドルームで寝たがるものだが、これほど狭いところで寝るとはね。素晴らしい」
「あまり大きな声でそんなことを言うものではないよ。しかし、風情のある部屋だな」
私はボンドをたしなめつつ、チラリと後ろを見る。柴柳氏と孝作氏がそこに立っているのだ。
早口の英語で会話しているので内容はあまり伝わってないと思うが、柴柳氏はともかく孝作氏は得体のしれない笑みを浮かべていた。私は真作氏の病的な表情とはまた違った不気味さを覚えて、すぐに視線を外す。
「これらはお兄様の趣味ですかな?洋書も多いようだ」
「それは親父の趣味ですね。西洋骨董にも興味がありまして、いろいろと集めていました。蔵の中にしまってありますよ」
孝作氏が説明する。ボンドはしきりにうなずいていたが、ふと鼻をひくつかせた。
「ここもあの匂いがするね。防虫剤の」
「確かにね。あの人形はいつもこの部屋に?」
ボンドが孝作氏に聞く。孝作氏は肩をすくめ、まるで欧米人のようなしぐさをする。
「あれは親父の形見でしてね。どこかの人形師だか何だかに特注で作られたとか。臨終の床でもあの人形を大切にしろと言ってたもので、飾っていたんですよ。そうしたら、兄の様子がだんだん変になっていきましてね」
「ふむ……声と言ってましたな。どのような声なんでしょう」
ボンドが聞くと、孝作氏は言いづらそうな顔を見せる。
「かすれて聞き取りづらいそうですが、兄貴の名前を呼んでいたとか」
「なるほど」
室内をしきりに観察しながらボンドは気のない返事をする。
この部屋は二面が障子、二面が土壁になっており、侵入するのは用意に見えた。しかし、障子の側には雨戸が引き出せるようになっており、閂で固定できるとのことだった。
「日本建築でも密室ができるようだね」
「何、天井は板だし、この縁の下にも潜むことができるようだ。ただし、そこに潜んでやることが声を出すだけというのは……」
「手間がかかりすぎる?」
私の言葉にボンドがうなずく。さらにひとしきり調べた後、我々は島田家を後にした。
※ ※ ※
「さすがのボンド氏も今回はお手上げかい?」
自宅に帰った私たちはセツが用意してくれた夕食をとっていた。食卓にはセツも座っており、自分が焼いたサンマをもくもくを食べている。
セツが食事を共にするのはここ最近のことであった。使用人ということで別室で食べていたのだが、私が無理を言って同席させたのだ。一人で食事をするセツを見かけ、その姿がひどく寂しそうだったのが理由だ。
セツが同席するとボンドは少しだけきまりが悪い顔をする。彼の効率第一の食事スタイルをセツが「お行儀が悪い」と注意するのが原因である。あの傍若無人な男が小柄なセツの言葉に渋々従うのは私にとって食事時の楽しみの一つだった。
「お手上げじゃないさ。いくつかの仮説はあるんだ。だが、決め手がね」
強がってるようには見えない。ボンドは確かに事件の真相に指をかけているのだろう。サンマをつつこうとするボンドに、セツが大根おろしと醤油を一緒にして食べるように指導する。
「うむ……悪くないね」
「良かったです」
うれしげなセツの顔に私はホッといやされる。ボンドはサンマの内臓を食べることをいやがっていたが、セツの説得で仕方なく口に運んでいく。
「気になるのはあの防虫剤だ。ショーコーだかショーチョーだか」
「樟脳だ」
「そう、そのショーノーだ。あれがどんなものか分かればいいんだが……」
「樟脳ならありますよ?」
我々の会話にセツが割り込む。その言葉にボンドの表情が変わる。
「本当かね?ミス・セツ!すぐにショーノーを持ってボクの部屋に来てくれ!ええい、食事はボクの部屋で食べればいい!すぐにだ!」
味噌汁を白飯にかけて一気にすすり、サンマを骨ごと食いつくしたボンドが立ち上がる。そして、彼は待ちきれないように自室へと歩き出していた。
その後、セツがボンドの部屋で何をしていたかは私は知らない。ただ、夜も更けた頃に転寝をしていた私の耳、ボンドのこんな大声が聞こえてきたことだけは覚えている。
「わかったぞ!」と。
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