第50話 始まりの光
もう一人の貞子の瞳から、憎悪の炎が消え去り、代わりに困惑と、そして深い安堵の色が浮かび上がった。彼女の視線は、貞子の言葉と、目の前で次々と現れる温かい記憶の断片を行き来している。まるで、それが自分のものであることを信じられないかのように、震える手が空中を彷徨っていた。
「…私…にも…こんな…」
途切れ途切れに発せられた言葉は、彼女がどれほど長い間、絶望の闇に囚われていたかを物語っていた。その口から、微かな嗚咽が漏れる。それは悲しみの涙ではなく、ようやく安らぎを得た魂の喜びのようだった。
貞子は、ゆっくりと、しかし力強く、もう一人の貞子の手を取った。ひんやりとした感触だが、そこには確かな存在感があった。
「そうよ。私たち、たくさんのものを受け取ってきたわ。そして、たくさんの人たちが、私たちを支えてくれた」
貞子の言葉は、もう一人の貞子の心に温かく響き渡る。憎しみと絶望に覆われていた彼女の記憶が、徐々に、しかし確実に光を帯びていく。まるで、長い冬が終わり、春の訪れを告げるかのように。
「あなたは一人じゃない。ずっと、私と一緒だった」
貞子の言葉に、もう一人の貞子の身体から白い光が溢れ出した。それは、井戸の底で囚われていた魂が、ようやく解放された証だった。光は徐々に強まり、貞子の心の中に、穏やかな温かさが広がっていく。それは、悲しみや苦しみだけでなく、かつて失われた温かい感情、そして、忘れ去られていたはずの「生きていきたい」という強い願いが、再び貞子の中に流れ込んでくるような感覚だった。
光は次第に薄れ、もう一人の貞子の姿は、優しい微笑みと共に消え去った。代わりに残ったのは、貞子の心の奥底に深く根付いた、清らかな感覚と、未来への確かな希望だった。
井戸のほとりで
意識を取り戻した貞子は、ゆっくりと目を開けた。満月の光が、古びた井戸と、その周囲を照らしている。冷たい石の感触が背中に伝わり、自分が井戸の縁に倒れていたことを思い出した。
「貞子さん!」
耳慣れた声が聞こえ、貞子は視線を向けた。そこにいたのは、心配そうな顔で駆け寄ってくる栞と、その隣で息を整えている舞子だった。二人の顔には、疲労の色が濃く浮かんでいるが、安堵の表情が浮かんでいた。
「栞…舞子さん…」
貞子は、かすれた声で二人の名を呼んだ。そして、自分の手を握りしめている栞の温かい手のひらに、そっと触れた。その温もりが、今までの出来事が夢ではなかったことを教えてくれる。
舞子は、貞子の変化を感じ取っていた。纏う空気から不吉な影は消え去り、そこには穏やかな光が宿っている。
「よかった…貞子さん、もう大丈夫だね」
舞子の言葉に、貞子はゆっくりと頷いた。心の中には、まだ過去の悲しみが残っているが、それはもう彼女を支配するものではない。むしろ、それを乗り越えたことで得た強さと、未来への希望が、彼女の瞳に宿っていた。
「ええ。ありがとう、舞子さん。栞」
貞子の言葉に、栞は涙ぐみながら貞子を抱きしめた。舞子もまた、安堵の息を漏らし、静かに見守っている。
井戸の底から聞こえていたおぞましい呻き声は、もう聞こえない。ただ、夜の森に、優しい風の音が響くだけだった。貞子の長く苦しい戦いは、ここで一旦の終わりを迎えた。しかし、彼女の旅は、まだ始まったばかりだ。新たな自分として、未来へと歩み出す力が、今の貞子には確かに宿っていた。
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