第44話 駆け引き
振り返った貞子の目に飛び込んできたのは、月明かりを背に佇む、もう一人の貞子でした。白いワンピースを纏い、顔ははっきりと見えないものの、その姿は紛れもなく貞子自身でした。貞子は冷静に応えます。
「えぇ…ただいま」
その言葉に、もう一人の貞子の声が、静かに響きました。感情を抑えたようにも、あるいは深い疲労を滲ませているようにも聞こえました。
「…待っていたわ。あなたが来ることは、分かっていた。全てを終わらせるために、ここへ戻ると」
貞子は、もう一人の自分から目を離しません。恐怖はありません。ただ、過去と現在の自分が、今、この場所で向き合っているという、静かな事実だけがありました。
「ええ。あなたを…そして、私自身を終わらせるために来たの」貞子は、手にしていた白い花を、ゆっくりと井戸の縁に置きました。「あなたの中に残る、全ての苦しみと悲しみを解放するために」
もう一人の貞子は、貞子の言葉に微かに表情を変えたように見えました。それは、安堵のようでもあり、諦めのようでもありました。
「…そう。それが、あなたの決断なのね」もう一人の貞子は、一歩、貞子に近づきました。その声に、かすかな提案が込められます。「…ならば、私を、再びあなたの一部に戻し、一つになるの。その時、あなたは目覚めて光となるか、それとも闇となるか……」
貞子は、もう一人の自分の目を見つめ返しました。その言葉は、貞子の心の奥底に強く響きました。
「分かっているわ」貞子の声は、澄んでいました。「だからこそ、私はもう迷わない。全てを受け入れ、前へ進む。それが、あなたを、そして私を救う唯一の道だと信じているから」
もう一人の貞子は、貞子の真っ直ぐな瞳をしばらく見つめ、そして静かに目を閉じました。次の瞬間、その身体は白い光を放ち、ゆっくりと貞子の方へと溶け込んでいくようでした。光と影が混じり合い、貞子の心の中に、新たな、そして深い感情が流れ込んできます。それは、悲しみだけでなく、かつて失われたはずの温かい記憶の断片も含まれているようでした。
時を同じくして、博多湾沖の小島では、舞子と栞が必死に力を注ぎ続けていました。封印の核である石は、弱々しいながらも光を放っています。しかし、その光は安定せず、時折激しく明滅しています。
「くっ…まだこんなに不安定だなんて…!」
舞子の額には大粒の汗が流れ落ち、その呼吸も荒くなっていました。隣で舞子の手を握り、共に力を送り込んでいた栞も、顔色が悪くなっています。
「舞子姉ちゃん、無理しないで…!」
栞の声が、舞子の耳に届きます。しかし、舞子には止まるという選択肢はありませんでした。この封印が完全に破れれば、博多の街全体に災いが及ぶかもしれない。そして、貞子にも。
「大丈夫…あと少し…!」
舞子は歯を食いしばり、残る全ての力を振り絞って石へと集中させました。すると、明滅していた石の光が、徐々に、しかし確実に安定し始めます。柔らかな光が、辺りの闇を静かに照らし出しました。
「やった…!安定した…!」
舞子の力が尽き、その場にへたり込みます。栞も安堵の息を漏らし、舞子の肩にそっと手を置きました。二人の目には、達成感と、そして遠く離れた貞子への心配が入り混じっていました。
「これで、貞子のところへ行けるね…!」
栞の言葉に、舞子は力なく頷きます。二人の戦いは一旦終わりを告げましたが、貞子の戦いはまだ続いています。夜空に浮かぶ満月が、三人の行く末を静かに見守っていました。
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