第39話 新たな懸念
狗ヶ岳を下山した三人。鳴海は、痛む足を引きずりながらも、古賀町のアパートへと帰路を急いだ。奈緒のことが気がかりだった。一方、貞子と葉月は、博多の喧騒の中、久しぶりの海猫亭へと戻った。店にはいつもの穏やかな空気が流れ、紗栄子の温かい笑顔が二人を迎えた。
数日が過ぎ、海猫亭の片隅のテーブルでは、栞、貞子、葉月が、古い書物を広げていた。栞が大島から持ってきた古文書には、狗ヶ岳に咲く白い花に関する記述がいくつか見つかった。「魂を鎮める」「穢れを祓う」「深淵を繋ぐ」——断片的な言葉の数々から、その花が単なる植物以上の意味を持つことが窺えた。
「この花が、貞子さんの…その、抜け殻を鎮めることができるかもしれないんですね」栞は、真剣な眼差しで古文書を指差した。
「可能性はあるかもしれない」貞子は、顎に手を当てて考え込んだ。「でも、『深淵を繋ぐ』というのは、どういう意味だろう…」
「もしかしたら、あの抜け殻が、どこか深い場所と繋がっているのかも」葉月が、不安そうな表情で呟いた。
その時、海猫亭のドアが開き、静かに一人の見慣れない女性が入ってきた。物静かで、どこか憂いを帯びた美しい顔立ちをしている。
「すみません、少しお話を伺ってもよろしいでしょうか?」女性は、落ち着いた声で貞子に声をかけた。
「はい、どうぞ」貞子は、不思議に思いながらも、返事をした。
女性は、静かに席に着くと、真剣な表情で言った。「私の名前は羽田雫と申します。あなたがあの…抜け殻のようなものを追っていると聞きました」
貞子は、警戒の色を滲ませながらも、頷いた。「ええ。あなたは、一体…?」
「私は、この地に残る古い伝承を調べています」雫は、静かに答えた。「あの抜け殻は、非常に不安定な存在だと感じています。放置すれば、更なる負の感情を増幅させ、何を引き起こすか分かりません」
貞子は、雫の言葉に耳を傾けた。初対面であるにも関わらず、その言葉には、深い知識と強い危機感が感じられた。
「あなたは、あの抜け殻について、何かご存知なのですか?」貞子は、身を乗り出して尋ねた。
「ええ、少し」雫は、頷いた。「あれは、強い感情の残滓であり、かつて生きていた者の、未練や苦しみが形になったもの。あなたの一部であるならば、あなたにしか、あれをどうにかできないのではないでしょうか」
貞子は、自分の胸に手を当てた。自分の一部が、あのような恐ろしい形になっている。どうすれば良いのか、まだ見当もつかなかった。
「そして」雫は、テーブルに置かれた白い花の押し花に目を留めた。「その花は…?」
「これは、狗ヶ岳で見つけた白い花です」栞が答えた。「古文書によると、魂を鎮める力があるそうで…」
雫は、その花をじっと見つめた。「なるほど…もしかしたら、その花は、あなたの力と共鳴し、抜け殻を導く鍵になるかもしれません」
貞子は、その可能性に、わずかな希望を見出した。
「私に、一体何ができるというのでしょう…」貞子は、不安を滲ませた声で問いかけた。
「それは、あなた自身で見つけるしかないでしょう。でも、私は信じています。あなたなら、きっとできると」雫は、そう言うと、優しく微笑む。「そういえば、狗ヶ岳で出会った水野鳴海という女性が、あそこで、この地に災いを封じる『海門』があるかもしれないと話していました」
雫は、その言葉に、わずかに眉をひそめた。「海門…ですか。狗ヶ岳に、そのような伝承は聞いたことがありませんでしたが…」
「彼女は、古文書を調べていて、そう感じたと言っていました」貞子は答えた。「足を怪我して、深く探すことはできなかったようですが」
雫は、腕を組み、考え込んだ。「もし、本当に狗ヶ岳に海門があるのなら、それもまた、この地の不安定な状況に関わってくるかもしれません。覚えておきましょう」そして、再び貞子に向き直った。「ですが、まずは、あの抜け殻のことです。あなたに任せます。私は、この地に残る他の負の連鎖を断ち切るために、動くとしましょう」
その言葉には、不思議な信頼感が込められていた。見知らぬ女性の言葉だったが、なぜか、貞子の心に深く響いた。白い花を手に、貞子は、再び見えない敵との戦いに、微かな光と、新たな懸念を抱き始めていた。
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