第46話 二月十四日と、手渡された勇気

二月十四日、バレンタインデー当日。

俺は、いつもより早く目が覚めてしまった。心臓が、朝から落ち着きなくドキドキと脈打っている。

通学路も、学校の昇降口も、どこかいつもと違う、ソワソワとした空気に包まれている気がした。女子生徒たちは、小さな紙袋を手にヒソヒソと話し合い、男子生徒たちは、平静を装いながらも、どこか期待と不安が入り混じった表情を浮かべている。

教室に入ると、その雰囲気はさらに濃くなった。

あちこちで、小さなチョコレートの交換が行われている。友チョコ、感謝チョコ……。その度に、小さな歓声や照れ笑いが起こる。

俺は、自分の席に着きながらも、隣の陽菜さんの様子が気になって仕方なかった。

陽菜さんは、いつも通り明るく「おはよう!」と挨拶してくれたけれど、その頬はほんのりと赤く、瞳はどこか潤んでいるように見える。そして、彼女の机の横に置かれたカバンからは、可愛らしいラッピングの小さな紙袋が、ほんの少しだけ顔を覗かせていた。

(あれは……もしかして……)

期待と、もし違ったらという不安で、胸がいっぱいになる。

授業中も、先生の話なんてほとんど頭に入ってこない。ただひたすらに、時間が過ぎるのが遅く感じられた。

午前中の授業が終わり、昼休み。

特に何事もなく過ぎていく。陽菜さんは、美咲さんたちと楽しそうにお弁当を食べている。

午後の授業が始まっても、状況は変わらない。

俺の心の中で、ほんの少しだけ、諦めに似た気持ちが芽生え始めていた。やっぱり、あの試作品は、ただの友チョコの味見だったのかもしれない……。

そして、最後の日直の挨拶が終わり、帰りのホームルームもあっけなく終了した。

「さようなら!」

クラスメイトたちが、次々と教室を出ていく。

俺は、ゆっくりとカバンに教科書をしまいながら、重いため息をつきそうになった。

陽菜さんも、帰り支度を始めている。もう、終わりか……。

そう思った、まさにその時だった。

「あ、あの……相川くん。」

すぐ隣から、小さな、でも凛とした声が聞こえた。

顔を上げると、そこには、頬を真っ赤に染め、俯き加減に立つ陽菜さんがいた。その手には、朝、俺がカバンの中から見えた、あの可愛らしい紙袋が、しっかりと握りしめられている。

「こ、これ……。」

陽菜さんは、震える手で、その紙袋を俺の目の前に差し出した。

「ハッピーバレンタイン……。その……手作りなんだけど……よかったら、食べてくれると、嬉しいな……。」

声も、少しだけ震えている。

俺は、目の前で起こっていることが信じられなくて、一瞬、言葉を失った。

陽菜さんが……俺に……?

「……白石さん……これ、俺に……? 本当に……?」

ようやく絞り出した声は、自分でも情けないほど掠れていた。

陽菜さんは、顔を上げて、俺の目をまっすぐに見た。その瞳は、不安と期待で揺れている。

「うん……。相川くんに……あげたくて、作ったの。」

その言葉と、真っ直ぐな瞳に、俺の心臓は、今にもはち切れそうなくらい高鳴った。

嬉しさと、感動と、そして言葉にならないほどの愛おしさで、胸がいっぱいになる。

「……ありがとう。すごく……すごく、嬉しい……!」

俺は、震える手で、陽菜さんからのプレゼントを受け取った。

ずっしりとした重み。そして、ラッピングの上からでも伝わってくる、陽菜さんの温かい気持ち。

「一生懸命、作ったんだ。だから……美味しいといいんだけど……。」

陽菜さんは、はにかむように笑った。その笑顔は、今まで見た中で、一番可愛くて、一番輝いていた。

「絶対美味しいよ。大切に食べるね。」

俺がそう言うと、陽菜さんは「よかった……」と、心底ホッとしたような表情を見せた。

その時、教室のドアの隙間から、健太が親指を立ててグッと合図を送ってくるのが見えた。美咲さんも、少し離れたところで、陽菜さんに小さく頷いている。

俺と陽菜さんの間には、甘くて、温かくて、そして少しだけ照れくさい空気が流れていた。

手の中にある、陽菜さんからのチョコレート。

それは、ただのお菓子じゃない。陽菜さんの、たくさんの勇気と、そして……もしかしたら、特別な気持ちが詰まっているのかもしれない。

帰り道、俺は陽菜さんからもらったチョコレートの袋を、まるで世界で一番大切な宝物みたいに、しっかりと胸に抱きしめていた。

雪はもう止んでいたけれど、空気が澄み切っていて、星が綺麗に見えそうだ。

まだ開けてもいないのに、チョコレートの甘い香りが漂ってくるような気がする。

ホワイトデーには、どんなお返しをしようか。

そして、俺自身の気持ちを、どんな風に伝えようか。

そんなことを考えながら、俺の心は、かつてないほどの幸福感と、未来への大きな期待で満たされていくのだった。

今年のバレンタインデーは、間違いなく、俺の人生で一番、甘くて、特別な一日になった。

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