第4話 共有する景色と、近づく季節
あの日、桜の木の下で陽菜さんを撮ってから、数日が過ぎた。
劇的に何かが変わったわけではないけれど、教室での空気は、以前より少しだけ和らいだ気がする。
「おはよう、相川くん。」
「お、おはよう、白石さん。」
朝の挨拶も、前みたいに心臓が飛び出しそうになるほどの緊張はなくなった……と言いたいところだけど、やっぱりまだ少しドキドキする。それでも、陽菜さんが笑顔で返してくれるだけで、一日が少し明るくなるような気がした。
授業中、俺はうっかりペンケースから消しゴムを床に落としてしまった。
慌てて拾おうと屈みかけた俺より早く、隣の陽菜さんがさっとそれを拾い上げてくれる。
「はい、どうぞ。」
「あ、ありがとう。」
差し出された消しゴムを受け取る時、またほんの少しだけ指先が触れた。
短い、「ありがとう」と「ううん」のやり取り。それだけなのに、顔が熱くなるのを感じて、俺は慌てて前を向いた。隣から、陽菜さんの小さな笑い声が聞こえた気がした。
休み時間になると、陽菜さんが俺の席にやってきた。
「ねえ、相川くん。この前の桜の写真、すごく綺麗だったから友達にも見せちゃった! みんな、すごいねって言ってたよ。」
「そ、そうなんだ……。」
自分の撮った写真を褒められるのは、素直に嬉しい。照れくさいけど。
「うん! あんな綺麗な写真撮れるなんて、本当にすごいよ。……あ、そうだ。他にも相川くんが撮った写真、見てみたいな。」
キラキラした瞳で、陽菜さんが言う。
前回「見てみたい」と言われて実際に校庭に来てくれたことを思い出すと、断る理由なんてない。
「えっと……あんまり上手じゃないけど……。」
俺は少し迷った後、スマホを取り出して、写真フォルダを開いた。
プロの写真家みたいに作品撮りをしているわけじゃない。ただ、日常の中で心惹かれた瞬間を切り取っただけの、他愛ない写真ばかりだ。
校舎の窓から見えた虹。
帰り道で見つけた、壁を登る猫。
夕焼けに染まるグラウンド。
雨上がりの水たまりに映る空。
「わあ……! この場所、知ってる! 私もよく通る道だ。」
「こっちの空の写真、すごい綺麗……!」
陽菜さんは、一枚一枚、楽しそうに声を上げながら写真を見てくれる。
いつの間にか、陽菜さんの友達の美咲さんも隣に来ていて、「へえ、あんた、本当に写真好きなのね」と感心したように呟いた。
「うん、なんかね、相川くんの写真って、見てるとホッとするんだ。」
陽菜さんのその言葉に、俺はうまく返事ができなかった。ただ、胸の奥が温かくなる。
その様子を少し離れた席から見ていた健太が、俺がトイレに立とうとした隙に近づいてきて、肘で小突いてきた。
「お? 相川センセイ、ついに写真教室開講っすか? いい感じじゃーん。」
「……うるさい。」
俺はぶっきらぼうに返して、その場を離れた。
健太の言う「いい感じ」が何を指すのかは分からないけれど、陽菜さんと写真の話をしている時間は、確かに悪くない……いや、むしろ、楽しいと感じている自分がいた。
教室に戻ると、陽菜さんたちが別の友達と話しているのが見えた。話題は、もうすぐやってくる連休、ゴールデンウィークのことらしい。
「白石さんは、連休どこか行くの?」
「うーん、特に予定はないかなあ。家族で近場に出かけるくらいかも。美咲は?」
「私も、多分バイト。」
そんな会話が聞こえてくる。
連休か……。俺も特に予定はない。写真部の活動も休みだし、一人でどこか景色のいい場所にでも行って、写真を撮ろうかな、と考えていた。
ふと、陽菜さんと目が合った。
陽菜さんは、にこっと笑って、口パクで「どこか行くの?」と尋ねてきた。
俺は、少し考えてから、同じく口パクで「写真、撮りに行くかも」と返す。
「へえ、どこに?」
陽菜さんの目が、好奇心で輝いた。
連休まで、あと数日。
特別な約束をしたわけじゃないけれど、次に陽菜さんに会ったら、撮ってきた写真を見せてあげようかな。
そんなことを考えながら、俺は窓の外に広がる、初夏の色を帯び始めた空を眺めていた。
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