第2話

第2話 マスターのレコードノート(増量版)

 まだ開店前の『喫茶夢心地』は、夢の中のように静かだった。

 雨はすでに上がっていて、ガラス越しに薄い朝陽が店内をぼんやりと照らしていた。


 ユウト・クサナギは、扉のベルが鳴らないようにそっと開け、いつもの席へ向かった。

 この店には、不思議と「決まりごと」がない。営業時間も、客の振る舞いにも、明確なルールはないのに、全てが秩序だっていた。

 その空気が、いまのユウトにとっては心地よかった。


 カウンターの奥で、時雨が古びたレコードプレイヤーの針を丁寧に磨いていた。

 見れば、彼の指の動きは非常に繊細で、まるでガラス細工でも扱っているようだった。


 「悪い、勝手に入っちまって」


 ユウトが声をかけると、時雨は静かに首を振った。


 「お気になさらず。クサナギさんは、もう“ここ”の一部のようなものですから」


 「……それ、ちょっと怖い言い方だな」


 「本心ですよ」


 苦笑しながらユウトは椅子に腰を下ろす。

 ふと、カウンターの裏に並べられた古書のような背表紙の中に、妙にくたびれた一冊を見つけた。


 「なあ、そのノート……触ってもいいか?」


 「ああ、あれですか」


 時雨は手を止めて、その本を棚から取り出す。

 革張りの表紙はひび割れ、角が擦り切れている。

 金箔で記された表題は、すでに読めなくなっていた。


 「“レコードノート”と呼んでいます。

 音——とくに夢の中で聴いた旋律や鼻歌を、可能な限り書き留めたものです」


 「夢の音楽?」


 「はい。人の記憶に残った“消えてしまった曲”の断片。

 ……誰かの口ずさみ、流れた背景音、あるいはまだ存在しない未来の曲さえも」


 ユウトはページを開く。

 そこには、文字で綴られた不規則な譜面と、短いメモ書きが並んでいた。

_____

「午前3時、雨の音に紛れた旋律」

「多分、誰かの泣き声だった」

「覚えていたくなかったはずの曲——でも、また聴こえてしまった」

_____ 

「……これ、本当に“音”の記録なんだな」


 「ええ。人は、音と匂いに記憶を強く結びつけます。

 このノートは、“思い出したくない何か”を浮かび上がらせる触媒になることもあります」


 「危ない本だな」


 「だから、むやみに人には見せません。

 けれど——クサナギさんには、見てほしいページがある気がしていたんです」


 時雨は指先で、ページを一枚だけめくる。


 そこには、譜面も言葉もなく、たった一行だけが殴り書きされていた。


 > 『ユウトへ——あの日の歌、覚えてる?』


 文字は震えていて、誰が書いたかもわからない。

 だがその一文に、ユウトの心は凍りついた。


 (……知ってる。どこかで、聴いたことがある。いや……)


 喉の奥に、何かが引っかかる。

 頭では思い出せないのに、胸の奥が反応していた。


 「この字、どこかで見た気がするんだ。けど……」


 「思い出せない?」


 「いや、たぶん……思い出したくないのかも」


 時雨は静かに頷いた。


 「夢は、時に優しすぎます。

 辛い記憶を、“それらしくないかたち”で包み隠してしまう。

 でも、その奥には、必ずあなたの真実があるはずです」


 ユウトはノートを閉じた。


 (誰が書いたんだ、この言葉。なぜ、俺の名前を知っている?

 そして……“あの日の歌”って、なんだ?)


 店内に流れていたジャズが、ふと止まる。

 変わりに、レコードから微かに、口笛のようなメロディが流れ始めた。


 それは、どこか懐かしく、胸を締め付ける音だった。

 そしてユウトは、確かに聴いたことがあると確信した。


 ——過去のどこかで。

 ——名前すら忘れてしまった“誰か”と、共にいた時間の中で。


 「……この曲の続きを、思い出せれば」


 「ええ。そのとき、あなたは“誰かの願い”を思い出すでしょう」


 時雨の瞳には、わずかに翳りが差していた。


 まるで——彼自身も、同じ旋律に囚われ続けているかのように。

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