山吹色のマージナル《十市皇女~大津皇子~氷高皇女》
阿羅田しい
第一章 十市皇女の悲憤
第1話 淡い海
湖が嫌いだった。
南の彼方には、「海」というものが存在するらしい。それには果てなどなく、塩っ辛い水がどこからともなく寄せてきては、また、どこへともなく帰ってゆくという。そしてすぐにやってきてはすぐに帰る。休むことなく、永遠にその繰り返し。永遠に。
「姉さま。ほら、見て。こんなに長く編めたよ」
異母弟の
この湖の波は、「海」とやらでもないくせに、絶えず寄せては返している。果てもあるくせに、その全貌を明らかにしてくれない。なにをそれほどもったいぶっているのか。だから、湖の向こうにある東国の脅威を余計に増長させるのだ。
「今度は髪飾りを作ってあげる」
弟とはいえ、ひとつしか違わない。だが、少年はその
高市皇子はやさしい。虫も殺せぬであろう。そんな他愛のないことを考えていると、高市が不意に腕を伸ばしてきた。どきりとした。ただ、肩に止まった虫を掴もうとしただけなのに。
くすくすと
——ほらね、やっぱり。
やっぱり、高市は虫を殺せない。掴もうとしたのではない。はじめから追い払うだけのつもりだったのだ。高市はやさしいのだから。
「今度、
異母姉に笑われてばつが悪いのか、高市は慌てて話題を変えた。
この湖もそうだ。誰が名付けたか、人はそこを「
天智天皇が淡海の
十市も
「なにを
「内緒さ」
高市の瞳の奥が悪戯っぽく光った。内緒の代わりに、十市にも歌を強要しない。詠いたくなったら詠えばいい、詠いたくなければ詠わなければいい。ただそれだけのことだ。
十市は思った。いつか、この人のためだけに詠おう、と。
十市は、この晩の出来事を知らない。
この晩、一本の長槍が天皇の御前に突き立てられた。八尺ほどもあろうかという長槍が、雅やかな宴席を一瞬にして修羅場に変じさせたのだ。
「おのれ……
怒髪天を貫くほどの形相で天皇天智が勢いよく立ち上がる。群臣は震え上がった。それでも皇太弟大海人皇子は一歩も引かない。或いは
「お待ちくださいませ!」
発端は去る5月5日、
蒲生野で額田に袖を振る大海人。その姿を野守に見られはしないかとやきもきする想いを、額田は歌に込めたのだという。
「野守とは
臣下同士の他愛ない噂話。だが、それが一番聞いてはならない相手の耳に届いてしまった。
「答えよ、大海人。朕に隠れてこそこそと逢い引きし、朕を陰で
大海人は兄を見据えた。口はきつく閉じている。答える道理はないとでも言いたげだ。その高邁な態度がいちいち癇に障るのだろう。天智はさらに挑発した。
「女を盗られた腹いせか」
やはり口を閉じたまま大海人は兄から眼を逸らさずにいる。確かに、額田は自分の妃だった。娘も一人産ませている。それを兄が奪ったのだ。兄が憎かった。そのときは——。
「いいえ」
ようやく大海人が重い口を開いた。兄を
「では、なんだと申すのか」
天智の形相は変わらない。肩で大きく息をするさまが、彼の憤怒を象徴していた。大海人がまたも押し黙る。
自分でもわからなかった。いったいどうして兄の眼前に長槍を突き刺してしまったのか。愛妻を盗られた恨みだろうか。いや違う。大海人は四十路に近づいている。恋愛感情で理性を失うほど暗愚な男ではない。仮にも天皇の片腕皇太弟として
「朕を殺そうとしたのではないのか」
天智の声色は殺意に満ちた。それを腹心鎌足がいち早く察知する。
「
これほどまでに狼狽する鎌足を、かつて誰も見たことはなかった。
「君待つと我が
殺伐とした宴に華麗なる芳声を撒き散らせながら現れたのは、今は天智の妃額田王。当代随一の女流歌人だ。齢を感じさせない妖婉なその身のこなしは、一同の関心を瞬時に奪った。
「天皇のお渡りを今か今かとお待ち申し上げておりますものを」
どよめく臣下らを尻目に、額田は大胆にも御前へと近づいてゆく。額田の出現によって誰よりも安堵したのは鎌足であろう。彼は天智のほうを向き直した。
「天皇。いつぞや、
ぎろりと目線だけを向けながらも、天智は寵臣鎌足の言うことには一応聞く耳を保っていたようだ。それも相まって鎌足の口調は、先程までとは変わって穏やかになっていた。
「いかがです。折角額田さまがいらしたのですから、この場で判じていただくというのは」
同時に、天智の表情が和らいだ一瞬を額田は見逃さなかった。
「よろしゅうございます。この額田めが詠い申し上げましょう」
額田の言葉に天智はゆっくりと腰を下ろした。大海人も静かに席に戻る。宴は水を打ったように静まり返った。
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