第5話 金魚の夢

小さな団地が燃えた。

 炎に包まれたのは、隣人だった三人の命。

 加害者は、当時無職の女、桐谷あやの(きりたに・あやの)三十二歳。

 動機は「イライラしていた」。

 それだけだった。


 


 ──私は今、その彼女の前にいる。控え室のテーブルを挟んで。


 桐谷は痩せ細った身体を猫背に丸め、無表情でこちらを見ていた。

 だが、その瞳の奥には、何か深い闇が沈んでいるのがわかる。


「……“執行人”って、ほんとにいるんですね」

 かすれた声だった。

「誰にも会いたくないって思ってた。でも、あなたは別に“会う”人じゃないから……来てもいいかなって、思って」

 その言葉に、私はただ小さく頷いた。


「じゃあ、話すよ。……金魚の話」


 


 突然だった。だが私は、それを止めなかった。


 


「子どもの頃、団地に住んでたの。母親と二人暮らし。部屋、狭かったな。六畳ひと間に、ちゃぶ台ひとつ。母はいつも疲れてた。声、聞いた記憶があんまりない。たぶん、怒鳴るか、ため息つくかだった」


「でもね、金魚がいたの。夏祭りでもらってきた、赤い金魚。名前は、たしか……あかね、だったかな。自分でつけたんだよ。小さな水槽で、毎日見てた。あの子だけは、私に怒らなかった」


 彼女の目が、どこか遠くを見る。


「ある日、母が金魚の水を替えるって言って、洗面器に移したの。でも、私がうっかり……手を滑らせちゃって。あの子、ベランダから……落ちちゃった」


 沈黙。


「逃げたんじゃないかな、って思った。私と違って、自由になれたんじゃないかって。……バカみたいな話でしょ?」


 


 私は目を閉じた。


 また、見える。


 彼女の「過去」が、私の中に流れ込んでくる。


 


 灰色の団地。うす暗い室内。

 無表情の母。テレビの音だけが響いている。

 少女は、一人でスケッチブックを開いている。描かれたのは、金魚。

 ぬるい水の中を、ゆらゆら泳いでいた。


 


 ──場面が変わる。


 高校を中退し、就職を転々とし、いくつかの恋愛と別れ。

 どれも長続きしない。

 夜のコンビニで、商品の値札をぼんやり見つめているあやの。

 誰も彼女に気づかない。誰の記憶にも残らない日々。


 やがて、彼女は帰ってくる。あの団地に。

 年老いた母は、もはや彼女の存在さえ煩わしがる。

 「邪魔なのよ、あんた」

 そう吐き捨てるように言われたその夜、彼女の中で、何かが音を立てて崩れた。


 


 ──火が、すべてを呑み込んだ。


 


 私は目を開けた。


 彼女は、まだ目を伏せたままつぶやいていた。


「逃げたかったんだ、ほんとは。あかねみたいに……どこか、もっと静かな水の中へ」


「あなたが燃やしたものは、取り返せません。でも……あなたの“願い”は、わかりました」


 私はゆっくりと、彼女の手に手を重ねた。


 驚いたように彼女が顔を上げる。


「私があなたを許すことはできません。けれど……あなたが、誰にも届かなかった心の声を持っていたことは、知っておきます」


 そのとき、彼女の瞳に、ほんのわずかに涙が浮かんだ。


 


 時間が来る。


 彼女は何も言わなかった。ただ、握った手を静かに返してくれた。


 


 その夜、私は夢を見た。


 大きな水槽の中を、赤い金魚が泳いでいた。

 そのそばに、小さな少女の影があった。

 笑っていた。

 そこにはもう、炎も、怒りも、孤独もなかった。


 ただ、水のゆらめきと、やさしい光があった。


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死刑執行人 いつたいさん @itsutaisandesu

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