死刑執行人
いつたいさん
第1話 暴力の連鎖
灰色の天井と、くすんだ壁の狭間に、乾いた足音が響く。
ここは「死」を待つためだけの場所。
どんなに叫んでも届かず、どんなに悔いても赦されず、ただ時が止まる場所。
私は、その場所で今日も一人の男と向き合う。
職業――死刑執行人。名も顔も、記録には残らない。だが確かに、人を「終わらせる」ための存在。
「……宇田圭介。話があるなら、今のうちだ」
そう言って部屋に入ると、男は鉄の椅子に腰をかけたまま、じっと床を見つめていた。頬はこけ、顎には剃り残しの無精髭。髪は乱れ、目の下には深い隈。
罪人の顔ではない。いや、正確には「よくある顔」だ。怒りも、恐怖も、消えたような空っぽの表情。
男が顔を上げる。
その瞬間、私の中で何かが点火した。
視界の端に、まるで夢のような“記憶”が流れ込む。
(……まただ)
あれは何なのか、今でも正確にはわからない。ただ、この力が芽生えた日から、私は死刑囚たちの「過去」を断片的に“見る”ようになった。
音も匂いも、感情すらも伴って、まるで自分がその人生を生きたかのように。
──四畳半の汚れた部屋。
布団は血のついたシャツで覆われ、冷蔵庫の中には腐った弁当。
小さな男の子が、震えながら台所に立つ。食器を洗うその手は、切り傷と火傷に覆われている。
「おいコラ、まだ飯ができてねぇのかよ!」
酔っ払った女が怒鳴る。
女――彼の母親だった。
「母さん、包丁振り回さないで……もう、やめて……」
必死の懇願も虚しく、椅子が倒れ、食器が割れ、少年の頬にビンタが飛ぶ。
何度も、何度も。
──やがて場面が変わる。
成長した宇田圭介が、高校を中退し、深夜バイトを掛け持ちする姿。
帰宅するたびに母親が暴れていた。精神を病み、酒に依存し、彼に暴力を繰り返す日々。
それでも彼は警察に相談し、児童相談所に電話し、何度も助けを求めた。
「家庭の問題だからね、まずは落ち着いて話し合って……」
「一発でも殴り返したら、あなたが加害者になりますよ?」
壁のような言葉だけが返ってきた。
誰も、真剣に見ようとしなかった。彼の地獄を。
──そして、あの夜。
怒鳴り声、割れる食器、倒れる鍋。
彼の手に包丁が握られていた。
「やめろって……母さん、俺、もう無理なんだよ……!」
次の瞬間、視界が赤く染まった。
包丁が首筋を裂き、女は悲鳴すら上げずに倒れた。
私は、現実に引き戻された。気づけば手が震えている。
だが、それに気づいた宇田の方が、先に口を開いた。
「……あんたも見たのか? 俺の記憶」
声は低く、乾いていたが、どこか確かに“救い”を求めているようだった。
「俺、子供の頃から母さんが怖かった。でも、愛してもいたんだよ。治ってほしかったし、幸せになってほしかった」
「でも……もう無理だった。誰も信じてくれなかった。俺の声なんて、誰も聞いてなかったんだ」
私は言葉を探す。けれど何を言っても、それは彼を慰めるための“きれいごと”にしかならない気がして、何も言えなかった。
「正直、裁かれて当然だと思ってる。俺は人を殺した。たとえ理由があっても、それは越えてはならない一線だった」
「でも……」と、彼はぽつりと続けた。
「ただ、死ぬ前に一人くらい、俺のことをわかってくれる人間がいたら、それで少しは報われる気がした」
その目は、諦めの奥に、わずかな期待が光っていた。
「……俺がそれを見たからといって、赦されるわけじゃない」
私は低く呟いた。「でも……俺は、あなたの人生を見た。最後にそれだけは、伝えておく」
沈黙ののち、宇田はふっと微笑んだ。
それは、乾いた砂漠の中に咲いた小さな花のように、弱く、それでも確かに生きた微笑みだった。
やがて、執行の時間がやってきた。
彼は、静かに立ち上がった。最後に私の目をまっすぐ見て、ひと言だけ呟いた。
「ありがとう。あんたに見てもらえて、よかったよ」
私は、その言葉を胸に刻んだ。
初めてだ。職務としてではなく、人としてこの場に立っていると感じたのは。
スイッチを押す指が震えた。
それでも私は、押した。
仕事だから、ではない。彼の言葉を、最後まで背負うために。
その夜、私は夢を見た。
幼い圭介が、ぼろぼろの布団の中で、小さなぬいぐるみを抱いていた。
母親がいない夜にだけ見せる、安らかな寝顔だった。
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