山に行っただけ

怪物イケダ

山に行っただけ

 目が覚めたのは昼近くだった。頭がガンガンする。酒が残っているのか、喉がカラカラに乾いていた。


 俺は、久瀬くぜ とおる。普通のサラリーマンだ。


 ベッドから起き上がろうとして、ふと、右手に違和感を覚える。

 手のひらと指先に、乾いた泥のような汚れ。爪の間にも土が詰まっていた。

 「……なんだこれ」


 昨夜の記憶があいまいだった。誰かと飲んだ。駅前の安い居酒屋。

 途中で揉めたような気もする。怒鳴って、立ち上がって——その先が思い出せない。


 洗面所で顔を洗って、スマホを確認する。画面にひびが入っていた。通知の嵐。

 ロックを解除すると、アルバムに新しい写真があった。


 山道。真夜中。フラッシュで照らされた土の斜面。木々の隙間から覗く崖。

 そして、足元だけが写った写真。倒れている人間の足。

 ズボンが泥だらけで、片方の靴が脱げかけていた。


 手が汗ばんでくる。写真のタイムスタンプは、午前2時過ぎ。


 「何も思い出せない……」

 スマホのGPS履歴を開いてみる。昨夜、明け方まで、自分は本当に山にいたらしい。

 街の灯りのないエリア。県境の、廃道に近い林道のさらに奥。なぜそんな場所に?


 昨夜、何があった?

 誰と飲んで、誰と喧嘩して、なぜ山に? 誰かを——。


 頭がズキズキと痛む。酒のせいか、それとも別の何かか。

 ニュースを見る。事件の報道はない。警察の発表もない。


 スマホの画面を伏せて、ソファに倒れ込む。

 鼓動が早い。全身が重たい。起きて確かめに行くべきか、でも——。


 カーテンを閉めた。部屋の中は静かだった。

 昼の光も入ってこない。クッションに顔を埋める。




 「……まあ、いいか!」




人は忘れることで、今日を生きのびる。

真実を抱えて歩くには、世界はあまりに眩しすぎるから。

――久瀬 透(2025)


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山に行っただけ 怪物イケダ @monster-ikeda0407

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