佐藤美咲の独占欲2

当時の私は、心が豊かではなかった。


自分でも分かるくらいに、刺々しかった。

話しかけてくる同級生にも、先生の気遣いにも、どこかで苛立ちを覚えていた。

それはたぶん、全部私が「ピアノに縛られている」と感じていたからだ。

縛っていたのは他人か、自分か、そんなことすらも考えないようになっていた。


だから。


だから、声をかけてきた転校生。

芹沢優奈(せりざわ ゆうな)に向けた第一声は、拒絶に近かった。


「……関係ないでしょ」


窓辺に座ったまま、こちらを覗き込むようにしていたその子に、私は冷たい声を投げつけた。

けれど優奈は、どこ吹く風といった様子だった。

眉一つ動かさず、口元だけを軽くゆるめて笑ってみせた。

そして、まるで私の反応など最初から想定内だと言わんばかりに、手を伸ばしてきた。


「もしつまらないなら、ちょっと人助けに行こうよ!」


唖然とした。


友達でもない、私の名前すら知らないだろう子が、どうしてそんなことを言うのだろう。

それも「人助け」って何。何の話なの?


でも。

当時の私は、ピアノを弾かなくていい理由を、常に探していた。


理由なんて、なんでもよかったのだ。

私を鍵盤から遠ざけてくれるなら、どんなものでもありがたかった。

だから私は、ほんの少しの“魔が差した”のだ。


気づけば、その手を掴んでいた。


優奈は私の手を引いたまま、校舎の裏手へと歩き出す。

彼女の手は細くてあたたかく、軽く汗ばんでいた。


向かったのは、旧校舎だった。


すでに使用されておらず、扉は錆び、廊下はところどころ剥がれた床板がむき出しになっていた。

取り壊しの予定があるとも聞いていたが、予算の都合で延び延びになっているらしい。

そんな場所を、優奈は楽しそうに歩いていく。


「どこへ行くの?」


そう聞いてみると、彼女は明るく即答した。


「音楽室!」


旧校舎の音楽室。

見たことはないが、聞いたことくらいはある。


「この学校の七不思議、知ってる?」


私は軽く首を傾げる。

すると優奈は、指折り数えるように語り出す。


「理科室の骸骨が動いたとか、誰もいない保健室から寝息が聞こえるとか。いろいろあるんだけどね」


「中でも私が気になったのは“誰もいない音楽室でピアノの音が鳴る”ってやつ」


思わず、ぞくりと背筋に冷たいものが走った。

怖いのは、正直ちょっと苦手だった。

でも、そう言ってしまうと弱いところを見せる気がして、私はつとめて無表情を保った。


「ふーん」


そう、そっけなく答えた。


やがて音楽室にたどり着いた。

優奈は私の手を離し、ためらいもなく扉を開ける。

私は思わず、彼女の背中に身を寄せた。

優奈の肩越しに見えた部屋の中には、古びたグランドピアノが、ひとつぽつんと置かれていた。


埃をかぶり、鍵盤のいくつかは黄ばんでいた。

けれど、なぜかそのピアノは、まるで生き物のように静かにこちらを見返しているようだった。


私は無言のまま、その場に立ち尽くした。

目の前にあるのは、けして私を縛るものではない。

でも…それでも、私は、また少しだけ胸がきゅうっとなるのを感じた。


それでも優奈は、振り返って私を見て、にっと笑ってこう言った。


「この子を助けてほしいんだ!」


その時の私は、まだ知らなかった。


この出会いが。

そしてこの場所で過ごす時間が、

私の心を、ゆっくりと豊かにしていくのだということを。

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