オルガノン

佐藤美咲の独占欲1

───ピアノを弾くのが好きだった。

幼い頃から鍵盤に触れるたび、心が浮き立った。

両親も、教師も、私の指が奏でる旋律に目を細めてくれた。

「才能がある」と言われるたびに、胸が誇らしくなった。


───ピアノを弾くのが好きだった。

高名な音楽家の家に生まれたことを、初めて感謝したのも、たぶんあの頃だった。

コンクールに出れば賞をもらえた。

演奏が終わるたび、拍手の音が心に降り注いだ。

ああ、これが、音楽の喜びだと思っていた。


───ピアノを弾くのが好きだった。

「次の審査員は、この曲が好みらしいわ」

「モーツァルトより、ベートーヴェンにして」

「あなたの音は、柔らかすぎるの、もっと華やかに」

誰かの言葉が、私の指先を支配していく。

演奏のたびに、私は私でなくなっていった。


───ピアノを弾くのが好きだった。

学校でも家でも、「その曲を弾いて」と言われる。

選べる自由なんて、とうの昔に捨てた。

鍵盤の上を走る指は、もう自分のものじゃない。

音が出るたび、胸の奥で、何かが静かに冷えていく。

「上手だったわね」と言われても、もう、何も感じなかった。


───ピアノを弾くのが好きだった。

その日も、ひとり音楽室にいた。

窓は少し開いていて、夏の匂いが風に乗って入り込んでくる。

来週のコンクールに向けて、私はまた「期待された」曲を練習していた。

譜面通りに、丁寧に、正確に。

感情は、乗せない。

だって、それを望まれていないのだから。


ふいに、声がした。


「つまんなそうにピアノ弾くんだね」


驚いて顔を上げる。

音楽室の窓の外、木の枝にでも座るようにして、ひとりの女の子がいた。

制服は同じだ。きっと、最近この学校に転校してきた子だ。


彼女は、私の目をまっすぐに見つめていた。

その視線には、演奏技術への称賛もなければ、家柄への遠慮もない。

ただ純粋に、私自身を見ていた。


当時の私は、心が豊かではなかった。

誰かの期待に応えることが、自分の価値だと信じていた。

だから彼女の言葉に、戸惑いしか感じられなかった。

悔しかったし、怖かった。

でもそれ以上に、その一言が胸に刺さったのだ。


そして。


この出会いが、私にとっての運命だった。




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