補章「綺麗なひと」
カフェのグランドピアノの横に、そっと腰かける。
椅子の高さをほんの数ミリだけ調整し、息を整える。
あの子――いや、今ではもう立派な大人になった人――が扉をくぐったのに気づいたのは、最初のコードを鳴らしたときだった。
まさか、偶然にこんな場所でまたすれ違うとは思わなかった。
けれど、こちらからは声をかけない。そう決めていた。
見つけてくれるなら、それが一番うれしい。
見つけてくれなくても、それでもいい。
曲が終わると、私は椅子を静かに引いて立ち上がる。
カウンターのマスターに、事前に預けていた封筒を合図で渡すよう伝えてあった。
「君の左手は、少し猫背になる癖があるよ」
それは、ずっと見ていたという証。でも、それ以上は書かなかった。
名前も、想いも、言葉にはしなかった。
見守るとは、そばにいることではない。
そこに「いた」とわかってもらうために、声を出さずに存在することだと思う。
私は外に出た。カフェの窓に、あの人がコーヒーを口に運ぶ仕草が、ほんの一瞬だけ映った。
今も、
そして何より、
それは本当に目の前にいたのか、それとも――
綺麗な記憶が、音になっただけなのか。
わからなくてもいい。
私の中では、たしかに、“そこにいた”。
綺麗なおじさん @traceweaver
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