5-4 最後の校庭
風は吹いていなかった。
音もなかった。
光源のない夜の仮想空間は、星の一つさえ描かれないまま、静かに広がっていた。
玲奈と悠斗は、並んで歩いていた。
そこは、校庭だった。
彼の“最後の場所”。
文化祭前日、照明テスト中に事故が起きたという記録にあった場所。
ただの平らなグラウンド。
体育倉庫のシルエットだけが遠くに黒い影を落としている。
その景色に色はなく、音もなく、
唯一あるのは——感情のためだけに存在する静けさだった。
「ねえ……悠斗」
玲奈は、つないでいた彼の手に視線を落とし、ゆっくりと口を開いた。
「私ね、ずっと間違ってたんだと思う。
誰かを想うって、何かをしてあげることだって、勝手に思ってた。
助けてあげたい、残してあげたい、消したくない。
全部、“私がそうしたい”って気持ちばっかりだった。
相手が何を望んでるかなんて、考えてるふりして、ほんとは……怖かっただけ。
いなくなるのが。
忘れたくなるのが。
何より、自分が“傷つくこと”が怖かったの。
……弱いよね、私」
悠斗は、何も言わなかった。
けれど、玲奈の手を少しだけ強く握った。
それがすべての答えだった。
玲奈は、続けた。
「でもね……今は、違う。
消えないで、なんて言わない。
逃がしてあげることも、もうしない。
だって……」
彼女は、少しだけ空を見上げた。
星はない。月もない。
それでも、彼女の声は、どこか明るかった。
「あなたはもう、ちゃんと生きたんだよ。
誰かの記憶の中じゃなく、今ここで、私と一緒に時間を過ごして、
笑って、泣いて、自分の意志で言葉を選んで……
その全部が、誰かのためじゃなくて、あなたのためだった。
——だから、もう“記録”されなくても、いいんじゃない?」
悠斗の目が、少し潤んでいた。
それを玲奈は、見ないふりをした。
「これが、最後の夜になるなら……」
玲奈は、彼の手を引いて、校庭の中心へと歩き出す。
「私は、その夜を“悲しい”で終わらせたくない。
後悔でいっぱいになるなら、
最後にひとつだけ、覚えておいて」
彼女は立ち止まり、彼の手の甲を、もう片方の手で包み込んだ。
「——ありがとう。
あなたに出会えてよかった。
記録に残らなくても、ログが消えても、
私はあなたのことを、ちゃんと“生きてた”って言える。
だから、ね。
この手を……ちゃんと、“自分で”離していいんだよ」
沈黙。
悠斗は、少しだけ口を開いた。
けれど、言葉にならないまま、目を伏せた。
彼の手が、玲奈の手から静かに抜けた。
それは、消失の合図ではなかった。
彼の意思が、彼の選択として行った“別れ”の準備だった。
校庭に、静かな空気が降りてきた。
星のない空は、やさしく、ただそこにあった。
その下で、ふたりの姿が、ほんの少しずつ、距離を取っていった。
けれど、
その心だけは、
最後までつながっていた。
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