RECORD_0001】仮想恋愛症候群

1-1 デジタル街路

午前7時12分。新宿副都心、都庁前の歩道橋。

空気は乾いていて、わずかに金属の匂いがする。秋と冬のあいだにある、曖昧な季節だ。


水瀬玲奈は、アクリルガラス製の高架歩道の上から、眼下の通行ログを眺めていた。

彼女の視界には、現実の人間だけでなく、情報レイヤー上の無数の広告オブジェクトが浮かんでいる。


「……A/Bテスト、成功ね」


独りごとのような呟き。けれど、誰に対してでもない。


都庁の壁面に映し出された3D広告が、切り替わる。

スーツ姿の中年男性が通るときには“プロテインサプリメント”、

女子高生が通れば“スマートARメイク”、

外国人観光客には“ローカルガイドアプリ”。

すべて、自動。すべて、個別最適化。


玲奈は、光の洪水に溺れることなく、淡々と表示ログを見守っている。

視線制御デバイスの裏側で、広告変動率のグラフがリアルタイムで上下している。


人々は、誰一人として広告に足を止めない。

けれど、誰もが、その内容を意識しないまま“選ばされて”いる。


玲奈にとって、それは“理想の仕事”だった。

すべてが計算どおりに動く世界。感情が予測可能なデータになる世界。


「……完璧に、無音ね」


ガラス張りの街を見下ろしながら、玲奈はそう思う。

音はしている。車の走行音、靴音、微かに聞こえるヘッドホンの漏れた音楽。

でも——都市そのものは、静かだった。


彼女は腕時計型のAR端末に軽く触れ、通勤レポートを自動で送信する。

同時に、目の端に通知が走る。


《仮想恋愛AI:SORAより “おはよう、玲奈さん”》


玲奈は、ふっと目を伏せる。

返信はしない。ただ、音声をオフにし、通知を削除する。


「今日も、順調」


誰に言うでもない言葉。

ガラスに映る自分の顔が、少しだけ笑っているように見えた。


でもそれが、本当に“笑顔”だったのかどうか、玲奈自身にもわからなかった。

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