ラストドライブ
にのまえ(旧:八木沼アイ)
ラストドライブ
私は、池に浮かぶ四肢を広げた一匹のカエルを眺めていた。
右手に傘を差しながら、左手でスカートを織り込み、屈んで観察する。止む気のない無数の波紋が、カエルに当たっては跳ね返る。白いお腹を空に向け、満足気といってもいい様子で、無情な雨に打たれていた。すると、餌と勘違いした数匹の鯉が、四肢を広げたカエルをつつく。パクパクと、カエルの手や足を吸い込んでは、餌ではないと確信し、つまらんといった顔を浮かべ、底へと帰ってしまった。
私の足元から数メートル離れたところでは、桜の花弁がアスファルトに落ち、デスゲームさながらのステージを作り上げる。相次いで挑戦するカエルにバッタ、コオロギ。雨に打たれて、今にも脱落しそうな彼らを安全な領域内で虎視眈々と見守るスズメやカマキリ。捕食者と被捕食者のゲームを見ている私は画面を通して楽しむ一人の視聴者だ。
コツコツと無機質な足音を立てながら誰かが近づいてくる。
「…終わったぞ、これで最後だ」
「…うん」
はぁっと、白い吐息がとぐろを巻いて宙に舞う。結末の変わらないエンタメを見る時間は終わり、私の世界はまた白黒に戻ってしまう。車内はむっとした空気に満ちており、体全体を押し退け、思わず咳き込んだ。むせつつ薄目で運転席を見ると、父親はもう順応しているようだ。人が座るのに向いていないであろう硬さの後部座席に腰を下ろす。その時、手にひやりと冷たい感触がした。傘をしまう際に、スカートに点々と雫が飛び跳ねていたようだ。不意に、その模様は幼少期に遊んだケンケンパを思い出させる。
道路に、そこらへんに落ちている白い石でガリガリと丸い円を書き込み、すっぽりと足を入れてリズムよく進んでいく遊びだ。そんなことを思い出しながら、ぼーっと、しみ込んだスカートを眺めていた。
○
雨に滲んだ抽象的な風景はどんどん後ろへ引っ張られていく。車内は重苦しい雰囲気を纏っていた。父との気まずい空気感を誤魔化すように、頓狂なラジオ番組が産声を上げた。父は彼らの産声を聞かせたいのか、はたまた、私との会話を避けたいのか、スッとボリュームを上げる。
「いやぁ、それにしても最近はデスゲームが流行っていますよねぇ」
「まぁ、悪趣味だこと」
「マダムは嫌いなんですか?」
「そうね、人の命が粗末に扱われるエンタメなんて、三流よ」
フンっと、父と司会者が鼻で笑う。よく見ると、ハンドルを握る手に力がこもっていた。
「…では、一流とは何でしょうか?」
「そうね、それは、誰も傷つかないものよ」
「というと?」
「そりゃもちろん、だれも傷つかないエンタメよ。それこそ一流だわ」
「ほぉ、でもマダムが受け持つ番組は全部誰かが傷ついて成り立っていませんか?」
「だから、私は、二流なのよ。なにも一流だなんて言わないわ」
「あっはっは、確かにそうですね。マダム、デスゲームは今、非常に高い評価を得ています。なんと、とあるSNSでは、視聴率が月間三回連続で一位。これについてはどう思われますか?」
「嫌な世の中よね。みんな非日常に飢えているのよ。だから、自分の住んでいる世界から一番遠いものを見たいわけ。その多くの視聴者に当てはまるのが『死』なのよ。だって、現実世界で死なんて、特殊な環境に身を置いてない限り見られないわけじゃない?」
「非日常に飢えている、ですか」
「ええ」
非日常に飢えている、か。私にとっての日常は学校や家、もう少し解像度を上げれば、のどが渇けば自動販売機で買う、ほどけた靴ひもを結ぶことだ。じゃあ、非日常ってなんだろうか。天井は、更に雨が激しくなっているのを教えてくれる。
「逆に言えば、日常に慣れすぎてしまっていると?」
「そうよ。学校に行ったり、仕事をしたり、それが当たり前なわけ。だから、麻痺しちゃってるのよね。その日常こそ、大事にすべきなのに」
「確かに」
「当たり前って思うのは傲慢よ」
「マダムの格言、ですね」
「あなたは口が上手ね」
プツッと、父はラジオを切った。目的地にはまだついていないようだ。父は前を向きながら、言葉を発するには早くに口を開く。先ほど池で見た鯉のような挙動だった。きっと、何かを飲み込んで、言葉を精査して、彼の口から出荷させられる。その時間を私は待っていた。両手に握られたスカートは強くしわを作る。
「お前はどう思う」
「…え?」
予想だにしない質問だった。目線を窓に逸らしながら考える。景色もさほど見えないのに。
「だから、それのこと」
「あぁ、いや、これでいいと思うよ。あと、仕方がないでしょ」
「だよな、俺も親父に聞かされた時はびっくりした。だけど、俺たちはこうして生きてきたんだ」
「…うん」
「…ちょっと、コンビに寄ってもいいか?お菓子、買ってあげるぞ」
「…わかった」
「…思春期か?」
「…」
私はこういう父の無神経さが苦手だ。
○
車を降りて立ち上がると、予想通りお尻が痛い。クッションでもあればいいのにと思う。傘の隙間から覗いた空はグレーで塗りつぶされていた。しかし、色褪せた世界に虹が差し込まれる。父についていくと元気いっぱいに光る、カラフルな線が縦に入った豆腐型の建物が目の前に現れた。そんなコンビニの照明は、セーブポイントのような安心感を与えてくれる。ここなら油断してもいいのだろう。肩に頭をのせるのを許してくれそうだ。
「ちょっと金を下ろすから、お菓子選んできていいぞ」
「…はーい」
ぶっきらぼうに返事をしたものの、私は意気揚々と雑誌コーナーを左に回り、お酒コーナーを無視して、お菓子コーナーへと足を運ぶ。選り取り見取りのお菓子たち。コンビニ発券いつだってワクワクする。カゴを手に取り、私は均等に並ぶ彼らのオーディションを見守る。こんなにおいしいですよ、とみてくれだけはいいパッケージたちが私にアピールをし始めた。だが、彼らに興味はない。もうすでに決めていたお菓子を手に取ると、父親が隣に立った。
「え、こんなのでいいの?」
こんなの、私の好みをこの人の物差しで測られる。
「これでいいの」
「そうか、じゃあ俺はポテチで」
父はポテチを手に取ると、無造作にカゴに放り投げた。その後、私は手に取ったお菓子を、そっとポテチの上に乗せた。
棚に並んだお菓子たちは、選ばれていったお菓子たちにおめでとう、とでも言うのだろうか。仮にそうなら、棚に残されたお菓子たちは、この先の残虐的な行為を見ずに済むのだから、ある意味おめでとう、なのだろうか。
店内では車で流れていたラジオが息をしている。
「では次のハガキですね。えーっと、人間歴二十一年さん、私は現在、就活に悩んでいます。内定はゼロ、最終面接に行ったのは二回だけ。私はもうだめなのでしょうか…とのことです。就活ねぇ…私たちは就活してないですからね…うーん、マダムはどうお考えですか」
「そうね、私は…」
「…い。…おい、もういいなら行くぞ」
答えを遮るように、父は私からカゴを取ってレジに向かった。ぼーっとしていた私は、ハッとして父の背中についていく。
重くなり、役割を果たして喜んでいるカゴは、レジに置かれるとしょんぼりしてしまう。中から次々とお菓子が取り出される。彼らは自分の識別暗号が印刷されている所に、赤い光が、ピッと音を立てて確認作業を終えていくのを待ち望んでいる。きっと、透明な袋に入れられ、天国に今から行くんだ、とでも。だから、彼らは今、外で雨が降っていることを知る由もない。いや、雨すらも、だ。
○
車に戻ると、無残にも引き裂かれたポテチが広げられている。流石にポテチも驚いただろう。父にいるか、と聞かれたが、手を伸ばせずにいた。袋に入った彼らは、先陣を切って天国に行ったポテチを、羨ましがるだろうか。それとも、羨望のまなざしとは程遠い、絶望を受け止める諦観のようなものだろうか。変わらないのは彼らに訪れる結末だけである。私もその残虐の共犯者になった。
私たちは袋に入れられた、もといお菓子だったものを全て平らげてしまった。車内に新たな骸を乗せ、父はアクセルを踏む。
遠ざかっていくコンビニは、私たちを横目に、次に来る捕食者を何食わぬ顔で待っていた。ある意味、コンビニの方が生き物らしく見える。
○
父は、前を向きながら話す。
「あれ持ってきたっけ」
「たしか、後ろに入っているはず」
「…そうか」
それ以上の会話はなく、必要もない気がした。
心なしか、雨は若干弱まっている。
○
着いたぞ、と父に告げられた。車を出ると、やはりお尻が痛い。トランクに積んであるものを取り出して、伝統、を始める。
カッパを着て、スコップを取り出し、二人で掘り始める。雨で土が柔らかくなっており、私の力でも作業できそうだった。大体二メートルぐらいまで掘り進める。といっても先日に堀り進めていたらしく、私はわずかしか土を運ばなかった。父はスコップを置き、再び車に向かう。私の隣の席で、眠りにつくように死んだ母を運び始めた。母を掘った穴に無造作に入れると、何秒間か見つめていた。雨で父がどんな表情を浮かべているかわからなかったが、再びスコップを握る手は震えていた。掘った土を、また被せていく。
私は今しかないと思い、気になったことを聞いてみることにした。
「なんで、人間の母と結婚したの?」
「…」
聞こえなかったのだろうか。だが、スコップを動かす手は止まっていた。
「ねぇ、なんで」
「…聞こえてるよ!」
「…」
「母さんを愛していたからだ」
「じゃあさ、なんで、母さんは八十年ぽっちで死んじゃったの?」
「…人間の寿命は短い」
「…この伝統はなに。やっぱ変だよ、土に埋めるなんて、それも変な石の前に埋めるなんて」
父は苦い顔をする。
「伝統、な。人間は死んだら土に還して、また、何かに生まれ変わるんだと」
「私も、そうなるの?」
「俺たちと人間のハーフは、わからない。もう少しぐらいは長生きするんじゃないか?」
「ふぅん、そっか」
それ以上は何も聞かなかった。ただ、コンビニや車で聞いた母さんの声は、家にいる時と違って明るく元気で、それだけが嬉しかった。
父は、母が死んでから、母に関連するものはなにもかも捨ててしまった。今思えば、これが最後だから、家族最後のドライブだったから、母の元気だったころのラジオを聞かせてくれたのかもしれない。
まだ少し雨が降っていて、やっぱりお尻は痛いけど、見上げた空には虹がかかっていた。
ラストドライブ にのまえ(旧:八木沼アイ) @ygnm
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