秘密 (4)

 符紋室を離れた後、ノックスとアリアンは校舎の西側、小道の片隅に立ち止まっていた。

 どちらもまだ息が荒く、先ほどの緊迫感が完全には抜けきっていなかった。


「これで終わりにするつもり?」

  腰に手を当て、小さな拳銃を懐にしまいながら、アリアンが不満そうに言う。

 ノックスは疲れを隠すように服の埃をはたき、低い声で答えた。


「……あれ以上は危険だ。もう、深入りする気はない」


「中に封じられてたものが何か、知りたくないの?」

 アリアンは腕を組み、唇を軽く噛んで彼を見つめる。

  「それとも、なぜ今になってあれが動き出したのか……興味ない?」


「知る必要はない」

  ノックスの声は冷ややかだったが、視線はまっすぐアリアンを見据えていた。

  「それに、君もあそこにはもう近づくな」


 アリアンは肩をすくめ、悪びれた様子もなく笑った。

「はいはい、普通の学生さんには逆らいませんってば」


 そう言いながら、彼女は自転車を押して歩き出す。

 だが、その瞳には何かを追い求める光が宿っていた。


 ノックスは彼女の背中をしばらく見つめ、

  警戒心を拭いきれずに眉をひそめる。


 踵を返し、校門へ向かう彼の心に、父の言葉が再びよぎった。

「トラブルを避けろ。秘密に近づくな」


 ◆ ◆ ◆ 


 夜の街は静まり返っていた。

  街灯のぼんやりとした光が、ノックスの肩を照らしている。


 少し疲れた足取りで家に帰り、ドアを開けると、

  玄関には見慣れた暖かな灯りが溢れていた。


「おかえり」


 リビングから、母――カルマの声が軽く響く。

  いつも通り、自然な調子だった。


 ノックスが靴を脱いだ瞬間、足元をふわりとした影がかすめた。


 見下ろすと、小さな黒猫――アルが金と緑の混ざった瞳で彼を見上げている。

  その尻尾は気怠げに揺れ、小さな悪魔の翼が腰の辺りで微かに震えていた。


「……アル、邪魔するなよ」


 ノックスはしゃがみ込み、猫の耳をくしゃっと撫でる。

  アルは「にゃっ」と短く鳴いてから、玄関脇の棚へとひらりと跳び乗った。

  翼をたたみ、まるで黒い彫像のようにじっとしている。


「今日はずいぶん遅かったわね」

  カルマの声が再びリビングから聞こえる。

  ノックスが顔を上げると、彼女はソファにもたれ、分厚いハードカバーの本を開いていた。


 カルマ――深紅の髪を肩に無造作に流し、黄緑色の瞳でページから視線を外す。

  その口元には、どこか面白がるような笑みが浮かんでいた。


「……結界のチェックって、そんなに時間かかるものだったっけ?」


「授業が長引いただけだ」

  ノックスは無表情にそう返し、カバンをソファの横に置いた。


「授業、ね」

  カルマは本を閉じ、片手で頬杖をついたまま、ソファに跳び乗ったアルの頭を軽く撫でた。

  「パパは『目立つな』とは言ったけど、『夜遊びしろ』とは言ってなかったわよ?」


「心配いらない。大したことじゃない」

 ノックスはテーブルのコップを手に取り、水を一口飲んだ。

  その声色は変わらず冷静で、これ以上語る気はなさそうだった。


 カルマは眉をわずかに上げたが、特に深追いはしなかった。

  本を脇に置いて、ソファの肘掛けに軽く体を預ける。


「……無理しすぎないようにね。それと、あんまり面倒事を持ち込まないこと」


「分かってる」


 ノックスは水を置き、母と一瞬視線を交わした。

  その目には、彼の“異質な存在”に対する疑問は一切なく、ただ彼女なりの緩い“愛情”があった。


 カルマはにこっと笑い、気だるげに背を伸ばした。

  その姿は、まるで気まぐれな猫のようだった。


「ところで、何か食べる? まだ晩ごはん食べてないでしょ」


「……いい。もう寝るよ」

 その言葉に、アルがぴくりと耳を動かし、ノックスを見上げて「にゃ」と鳴く。

  まるで、“嘘つき”とでも言いたげだった。


「……うるさいな」

 ノックスはその小さな鼻をつまみ、アルが不満げに「ふにゃっ」と唸った。


「おやすみ、ヨルちゃん」

 カルマは軽やかな声でそう言い、本に視線を戻す。

  その口調には、どこか優しさと皮肉の混じった“甘さ”があった。


 ノックスはため息をつき、カバンを手に階段を上がる。

  木造の階段を軋ませながら二階へと進み、自室のドアを閉めた。


 部屋に響くのは、リビングから聞こえる母の鼻歌と、時折聞こえるアルの気まぐれな鳴き声。


 ノックスは窓辺に立ち、夜の校舎を遠くに見つめる。


 符紋室の光景が、頭から離れない。


 首を横に振り、それらを追い払うように机へ向かうと――

  彼は教科書を開き、静かに明日の予習を始めた。


 ◆ ◆ ◆ 


 その頃――


 アリアンは自宅の小さな庭に自転車を止め、俯き加減で玄関のドアを開けた。

 家の中は静まり返り、一つの灯りもついていない。


 彼女はため息をつきながらスイッチを押すと、冷たい白い光が一斉に部屋を照らした。


 まるでモデルルームのように整ったリビング。

  生活感の欠片もない空間。


 靴を脱いで放り出し、そのままキッチンへ向かう。

  テーブルの上には、ラップをかけたままの夕食が置かれていた。

 その横には、一枚のメモ。


「お嬢様へ。食事を忘れず、早めにお休みください」

  ――ヘレンより。


 アリアンは小さく笑い、プレートを電子レンジへ入れる。

  機械の唸り声が、広すぎる部屋の中に響き渡る。


 温めた食事を持ってダイニングテーブルに座り、彼女は何気なく階段を見やる。


 その奥には、父の部屋。

  扉は閉じられたまま、音一つしない。


「……また、降りてこないか」

 アリアンはぽつりと呟き、無表情のままフォークを口に運ぶ。


 あの人は、いつだって彼女に関心を持たない。

  “実の娘”であっても、この家では、まるで飾り物のようだった。


 食事を終えた彼女は皿をシンクに置き、自室に戻る。

  ベッドに寝転び、ぼんやりと天井を見つめていた。


 脳裏に蘇るのは――

  あの符紋室、そしてノックスが火炎で触手を弾き返した瞬間。


「……アイツ、いったい何者?」

 口元に浮かぶ微笑には、

  興味と――探るような光が宿っていた。


-序章 (完)-

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