第2話 酔いどれ女と濡れ女 2


 お姉さんの顔が近づいてくる。

 互いの息がかかる距離まで。


 え……私、女の人にキスされちゃう?

 公園の一角で?


「だめだよ……」

「うちに任せて、茉那。力を抜いて」


 言葉が、まるで甘い鎖のように私の体と心を縛っていく。

 逆らえない。


「優しくして……」

「ん。いただきます」


 ちろりと唇を舐める。

 その舌先は、なぜか二股にわかれていた。


「いい加減にしろ。この性悪ヘビが」


 突如として男性の声が割り込み、お姉さんがびくっと固まる。


 それからゆっくり振り向いた。

 ぎぎぎき、という擬音が聞こえてきそうなくら硬い動きだった。


 私もつられて、彼女の視線を追う。


 二メートルほど離れたところに立っていたのはやや背の高い青年だ。私より三つ四つ年上くらいかな。たぶんまだ三十にはなってないと思う。


 茶味がかった黒髪と同色の瞳。顔立ちは整っていてイケメンって表現して問題ないけど、下顎あたりの無精ヒゲのせいで台無しだ。


丹藤寺にとうじ……なんでここに……」

「酒場の主人から連絡がきたんだよ。ゆかりがやり過ぎそうな雰囲気だって」


「ち」

「舌打ちしてんじゃねえ。行った行った」


 男がシッシッと、野良猫でも追い払うように手を振る。

 紫と呼ばれたお姉さんは、ちょっとの間ふくれっ面で男をにらんでいたけど、諦めたように肩をすくめて立ち去っていった。


 私はといえば、ぽかーんと二人のやりとりを見つめているだけ。

 意味がわからない。

 姿が見えなくなるまで見送った男が、私の方を振り返る。


「大丈夫か? 怪我はないか?」


 と。


「ちょっとなに言ってるか判らないんだけど」


 怪我をするような状況じゃなかった。


 まーあ、ちょっとアブない雰囲気にはなってたけどさ!

 女同士でキスするところだったよ!


 新たな世界の扉を開かずに済んだとか、そういう意味では助けられた?

 埒もないことを考えながら、ベンチから立ち上がる。


 いつまでもこんなところにいても仕方がないし、それ以上に得体の知れない男と一緒ってのも怖いしね。


「あれ?」


 ぐにゃりと視界がゆがんだ。

 立っていられない。


 バランスを崩したのではなく貧血みたいな感覚である。

 もしも八百ミリリットルくらい献血したら、こんな感じになるかも。


「あぶない!」


 男が駆け寄って抱き留めた、んだと思う。

 目の前はとっくにブラックアウトしていたから、なにが起きたのか視認できなかった。


「あんの馬鹿ヘビ……致死量超えて吸い取ってやがる……」


 なんだか不穏当な言葉が聞こえる。

 そして私の意識は闇に落ちた。






 ぱちりと目を開ける。


「知らない……天井だ……」

「ああ。知ってたらびっくりする。それ以上に驚愕なのが、気絶から目覚めての第一声がネタ台詞だってことだな」


 私のつぶやきに、呆れたような声が返ってきた。


 いやあ、だって本当に知らない天井なんだもん。

 ここどこ?


「私の家じゃないし……」

「俺の事務所だ」

「お持ち帰りされたのか……」

「この期に及んで、まだそんな軽口がたたけるのか。呆れたな」


 いや、そんなに余裕たっぷりって訳じゃないんだけどね?

 なんというか、わけわからなすぎで逆に落ち着いちゃってるみたいな?


「まずは状況を説明するけど、身体を起こせるか」

「なんとか……」


 その段になって、私が寝かされていたのがソファだと気がつく。

 ついでに着衣などにも乱れはないようだ。

 ブラウスのボタンのひとつも外れていない。


 それ自体は貞操観念としてまったく悪いことではないんだけど、貧血で倒れた人間の扱いとしては雑すぎではないなかろうか。

 せめて毛布くらいかけてくれても良かったのよ?


「俺は丹籐寺準吾じゅんご。探偵だ」

「左院茉那よ」


 残念ながら名乗るべき肩書きはない。

 昨日までならごく普通のOLだって言えたんだけどね。


「左院さんは菊水小路にある呑み屋に入った。それは憶えているか?」

「うん」


 頷きつつ私は首をかしげていた。

 あそこは女ひとりでうろうろするような雰囲気の場所じゃない。かなりの上級者を除いて。


「引き寄せられたんだ。あいつらの常套手段でもある」

「あいつら? 常套手段? あ、いえ、続けて。質問は最後にまとめてするわ」


 いちいち話の腰を折っていたらいつまでも進まない。

 湧き上がる疑問は、いったん横に置いておく。


「なかなか肝が太い」


 丹籐寺が薄く笑った。

 ともあれ、呑み屋で紫に知り合ったのは偶然ではないらしい。


「そして酔い潰れるまで呑まされ、紫に連れ去れられた」


 グリーンベルトの一角、グリーンプラザまで連れて行かれ、ベンチに寝かされた。

 周囲からは介抱しているようにしかみえない状態だったろう。


「けど、紫の目的は介抱じゃあない。左院さんから精気エナジーを奪うことだ」

「エナジー……」


「精気でも霊力でも生命エネルギーでも、たいたい同じ意味なんだけどな。それがあいつらの生きる糧だ」


 私はごくりと唾を飲み込んだ。

 そんなものを栄養素にしている人間は存在しない。

 つまり、あの紫というお姉さんは、私の常識の中にはいないということだ。



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