黒崎冴子は、完璧な“嬢王”でオタクです。-第14回角川つばさ文庫小説賞(一般部門)1次選考通過作品_2次選考中-

三毛猫丸たま

『#01 黒崎冴子、完璧と秘密のはじまり』 《前編:起》…物語の幕開け、冴子登場

『#01 黒崎冴子、完璧と秘密のはじまり』

《前編:起》…物語の幕開け、冴子登場



――開始を告げるブザーが静寂を切り裂いた瞬間、空気が変わった。


東京都・蒼橋区に佇む美術オークションハウス「桐山アーツ」。

その地下ホールには、数十名のVIP顧客が静かに腰を下ろしていた。


誰ひとりとして、無駄な音を立てない。

会場を照らすシャンデリアのきらめきさえ、まるで息をひそめているかのようだった。


その中央。

一歩、一歩、音もなく歩みを進めて現れたのは――


黒のジャケットを肩に羽織り、白いブラウスの袖を肘までまくり上げた、凛とした一人の女性。


鋭く整った目元に、整然とした黒のセミロングヘア。

手に持ったハンマーが光を弾き、視線を引きつける。


誰もが、声を出すのを忘れて見つめていた。

 


「……これより、本日のオークションを進行いたします。黒崎冴子でございます。」



その一言だけで、空気が締まった。



「落ち着いて進めましょう。進行に、支障はありません」



そう続けた彼女――黒崎冴子は、桐山アーツ所属のオークショニア。

プロ中のプロであり、この業界において“完璧”とまで称される存在だった。


誰よりも美しく、誰よりも冷静で、誰よりも確実に落札を導く。


「冴子嬢王」――

そう呼ばれるのは、伊達ではない。


 

「最初の出品は、十九世紀後半・フランスの画家による油彩『雨上がりの庭』。開始価格は二百万円からとなります」


 

淡々と告げる言葉に、ざわめきも戸惑いもない。

顧客たちは冴子の声のリズムに合わせて、タブレットを操作する。

一見すると静かすぎるほど静かな空間。だが、そこには――


静かな“火花”が、散っていた。



「三百万でのご入札、ありがとうございます。――三百二十万」



ステージ袖からその光景を見つめていた相良茜は、そっと笑った。



「やっぱすごいなぁ……冴子ちゃん」

 


彼女は桐山アーツの同僚であり、冴子とは同期。

普段は親しみやすく朗らかな彼女でさえ、この空間ではひとつもふざけない。


なぜなら――



「この空間の空気を、完全に支配してる」

 


入社を控え見学に訪れていた本郷修也は、ステージ裏の記録席で固まっていた。


黒崎先輩って、すごい。すごすぎる。


書類で見ていた進行記録ではわからなかった、あの“気迫”。

あんなに静かなのに、なぜか誰も動けないような空気を作るその声、姿勢、眼差し。


これから毎日のようにこれを目の当たりにするのは、胃に悪すぎる――と思った。

 


一方、会場中央では。



「――四百八十万、ありがとうございます。では他にご入札の方は……」



わずかに間を空けて、



「――落札です」


 

冴子がハンマーを静かに下ろすと、わずかに会場が揺れたような錯覚があった。

それほどまでに、彼女の“言葉”はこの場に重みを持って響く。


 

オークションは続く。


彫刻、陶器、現代アート……

どんなジャンルでも、冴子の進行は乱れない。


緩急、抑揚、間合い――

すべてが計算され、緻密に制御されていた。


まるで舞台演出家のように。

いや、彼女自身が“演目”の主役であり、演出家であり、演奏者でもあった。



次に出品されたのは、国内アーティストによる一枚の抽象画。



「こちらは開始価格五十万円からとなります」



一拍置く。

 


「五十五万。――六十万。ありがとうございます」

 


冴子の視線は、誰か一人に向いているようで、実は全体を見ている。

全員の動きと呼吸を読み、値の上昇速度と心理を見極め、次の言葉を組み立てる。


彼女の頭の中は、きっとオーケストラのように複雑で、美しい。

 


……そして、終了の合図。

 


「――九十五万。よろしいですか?」

 


会場の沈黙に応えるように、冴子はひと呼吸おいて、右手を上げた。



「――落札です」

 


見事だった。


誰もがそう思った。

だが、冴子の表情に、満足も油断も浮かんでいない。


その表情は――


どこまでも、完璧だった。



(つづく)

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