馬門石と古代船海王そして瀬戸内海路
2005年に、『大王のひつぎ実験航海事業』というものが実施されたらしい。
古墳時代に関西で多用された阿蘇ピンク石を、当時の条件を想定して熊本から輸送するという一大プロジェクト。詳細は熊本県宇土市のホームページを参照してほしい。
このプロジェクトで想定された古代のルートは、瀬戸内海に点在する肥後系の古墳と馬門石が使用された古墳の存在場所から割り出されているようで、大分市あたりから四国へ渡り、香川県から岡山(吉備)へと想定されている。
この馬門石がは使用されたのは5世紀になってからだが、この輸送のために海路が開かれたとは、私は考えない。もちろん、日々の営みのために船を出している人々は別。正規の海路として。
なぜか。
関門海峡を通過するのは、潮の向きが変わることやその流速から簡単なことではない。実際に、実験船海王も曳航されるかたちであり、さらにかなり苦労している。
例えば、伊都国から大和国まで行くとして考えると、小倉から曽根辺りまでは陸を通って、瀬戸内側へ出る方が安全確実な方法のように思えるのだ。
また、瀬戸内海は四国側よりも本州側に島が多く、それを考えると、船旅は香川までは四国沿岸を通ることは非常に合理的に見える。
四国沿岸には、もうひとつ来島海峡という難所があるが、ここも陸を通ることができるだろう。
そして、四国と本州の間には鳴門海峡もあるのだが、少し興味深い発見をした。
地図を見た印象になってしまうが、関門海峡と来島海峡は、海峡を避けて陸を通る場合に平野を通過できるが、鳴門海峡は山越えする必要がありそうに見えるのだ。海路に部分的陸上搬送を採用する身としては面白い。
この九州側の出発点を大分とする瀬戸内海路は、そういった理由から、5世紀以前よりあったに違いないと考える。
大分から伊予灘を渡り、愛媛へ。
これは卑弥呼の後を継いだ、臺輿の通ったルートではなかったか。
臺輿(とよ)は、壹與(いよ)と書かれている文献もある。いよ、と読めば伊予に繋がる。
伊予も愛媛も古事記に記載された古い地名。臺輿を示唆しているように思えてならない。
ちなみに、臺と壹、について。
どこかで書いたけれど、私の名前には、臺という字が含まれる。
名札を付けて通学していたころ、お年を召した方たちに名前のことで声をかけられることが良くあった。いま思えば、従軍していた方々なのだろう。
そして、彼らは良く誤認した。
ただ、見間違える人もいたし、壹は臺を省略した字だと思っていた人もいた。
だから、臺輿(とよ)と壹與(いよ)のどちらが正しい名前だったのかはわからないけれど、同じような誤認が入っているのだろう、と身をもって説明する。
伊予は、きっと彼女を示しているに違いない、と思っている。
実在するなら臺輿(とよ)の大体100年くらい後の人ではないかと考えられている景行天皇。この天皇の使者が本州から周防灘を渡って向かった神夏磯媛がいた場所は豊前で、その先の豊後にいたのが速津媛。
酋長とされているけれど、どちらもが女性であることも興味深い。
きっと、卑弥呼や臺輿の影響が色濃く残ったままだったのではないか。
自分たちの先祖が送り出した臺輿の後継者である。景行天皇のことをそのように認識していたからこそ、あっさりと恭順の意思を示したのではないか。
愛媛から先は、同じように吉備国を通って近畿へ。それはきっと、卑弥呼の登場よりも、高地性集落がつくられるよりも以前から。
魏志倭人伝によると、邪馬台国は船で行けるところにある。
背後に火山を有し瀬戸内に広がる国と海を挟んだ大分は、瀬戸内海を見渡す位置にある。瀬戸内海の反対側に、大和国が存在するようになる近畿がある。
古代の海路から、そんなことまで想像する。
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