四、紫苑と真帆

 女の腹が裂けた。

 紫苑は身構えたが、中から怪物が生まれるというわけではなかった。どうやら敵意があるわけでもないらしい。


 女の腹には大きな口がついていた。


 信じられないことだったが、怪異を見た以上、これも信じざるを得なかった。

 紫苑は目の前で起こっていることを否定するほど馬鹿ではなく、この世ならざるものに現実的な解釈をつけられるほど利口でもなかった。


 ただ、自分は怪異という生物に勝った。目の前の女はそれを腹から捕食している。

 その二つが分かっていれば十分だった。


 女の腹に空いた口には、大きな杭のような歯が並び、太い波のような舌が踊っていた。

 女は怪異にのしかかるようにして、唾液を垂らしながら怪異を捕食していった。

 ミチミチと音を立て、あたりに怪異の体液をまき散らしながら、まるで未就学児のような不作法さで。

 女は、艶っぽい恍惚とした表情を浮かべている。


 美味そうに食べるな――

 紫苑はふと自分の空腹に気がつく。精神的なものではなく、肉体的なものだった。

 今日はいつもより気分がいい。たまには焼き肉に行ってみてもいいかもしれない。


 ぼんやりと女の捕食シーンを眺めていたが、紫苑はあることに気がつき目を瞠った。


 女の傷がどんどん治っていっていたのだ。ズタズタに裂かれていた皮膚も、見えかけてた内臓も、折れていた鼻も、すべて元通りになっていく。

 治るのは傷だけではなかった。ボロボロに破れていた服は少しずつ生地が紡がれていき、シースルー模様のついた黒いワンピースに戻っていった。

 女の身体を濡らしていた血は、腹から飛び出た大きな舌が、毛繕いをする要領で舐め取っていた。


「なんだ、それ……」

 さすがの紫苑も自分の目を疑った。

「なあ、アンタ何者?」

 すっかり怪異を食べ尽くした女は、紫苑を振り返ると、子どものような顔で笑った。腹の口はいつの間にか閉じている。


 女は紫苑の前に立った。

 身長は低く、目線が紫苑の胸元当たりにあった。

 身体はところどころ骨が浮き出るほど華奢で、ちょっとした衝撃で折れてしまいそうな脆さを感じる。


「助けてくれてありがとね。それに怪我もさせて、ごめんなさい」

 その声は見た目よりも若く聞こえた。あるいは、声に似合わず大人びた顔に見えた。

「でも、あなた強いんだね。これ痛くない?」

 女の細い指が傷を撫でてきたので、紫苑は手を払ってやめさせた。


「それより名前は?」

「あ、ごめんね。あたしは真帆まほ。気軽に呼び捨てにしてくれていいから」

「ああ、そうするよ」

 紫苑はもともと誰かを敬称で呼ぶ気はなかった。敬語だってとうに捨てた。無頼に徹するのが紫苑なりの処世術であり流儀だった。


「あなたは?」

 真帆はずいっと顔を寄せてきた。特徴的な四白眼が、ぎょろりと紫苑の目を見つめてくる。髪の毛が青みがかっていることにそのとき気がついた。

「……紫苑だ。まあ、気軽に呼べ」

「分かった、紫苑」


「それで? あんたは何者なの?」

 真帆は力なく首を振った。

「それが……分からないの」

「分からない?」

「うん。あのね……」

 真帆は声を潜めるようにして、視線を迷わせた。


「あたし、記憶がないみたいなの」

 他人事のような口調は真に迫っておらず、紫苑は言葉の意味を図りかねた。

「でもアンタ、自分の名前は分かってるんだろ」

 首をかしげる紫苑に、真帆は言葉を重ねた。

「名前しか分からないの。正確には、名前もさっき思い出したの」

「……どういう意味だ?」

「ごめん、ちゃんと説明するね」


 真帆は、紫苑が怪異と戦っているときに隠れていた、捲れ上がったアスファルトに腰をあずけた。紫苑もその場にしゃがんで真帆を見上げた。


「見たら分かると思うんだけど。どうやらあたし、人間じゃないみたいなの」

 あそこに可愛い猫がいたよ、というような気安い口調だった。

「それで、気がつくとこのあたりにいて、さっきの化け物に襲われてさ。そうしたら紫苑が助けてくれた!」


 真帆はにっこりと笑った。

「紫苑、とっても強いんだね。何者? あたしが聞くのも変だけど、本当に人間?」

「一応な。それで?」

「あっ、ごめんね。それで……名前だけ知ってる理由だっけ。さっきの怪異を食べたら思い出せたんだよね。それから、怪異の居場所もある程度分かるみたい」

 

 紫苑は、怪異を蹴飛ばした後、真帆が怪異の動きにすぐ気がついていたことを思い出した。

「つまり、怪異を食べると記憶が戻るってことか」

「うん、多分ね」

 真帆はふっと伏し目になった。

「何なんだろうね、これ。あんまり可愛くないから嫌なんだけど。それに、自分がどうしてここにいるか分からないのもキツいしさ……」

 今にも泣きそうな声だった。紫苑は強烈な予感に駆られていた。


「なあ、真帆。アンタ記憶を戻したいか?」

「そりゃあ、戻したいけど……」

 真帆は力なく首を振った。

「でも無理だよ。あたし、紫苑みたいに強くないし。さっきの怪異見たでしょ? あたしなんかじゃぜーんぜん歯が立たないの」

「なんだ、そんなことか――」

 紫苑は飛び上がり、真帆の座る瓦礫の前に立った。


「簡単だろ。私が怪異をぶちのめして、アンタがそれを喰らえばいい」

「え……?」

 真帆は半端な笑顔で紫苑を見た。疑いとわずかな期待が入り交じった表情だった。


「安心しなよ。別にアンタを騙したって何の得もない。ただ、アンタは怪異の場所が分かるんだろ?」

「う、うん。それは、そう。分かるけど……」

「じゃあそいつらの場所に案内してくれ」

「……それで、紫苑にどんなメリットがあるの?」

 詐欺から身を守るような声に、紫苑はひと言で答えた。

「強いやつと戦いたい」


 怪異という化け物を見た瞬間、傷つけられ血を流した瞬間、真帆が怪異の場所を探知できると聞いた瞬間……紫苑はこれまでにないほど高ぶった。

 まだまだ世の中捨てたものじゃない。もっと強いやつと戦える。私と対等にやり合えるやつもいるかもしれない。

 そしてこの飢餓から救ってくれる何かと出会えるかもしれない――


「アンタについていけば、強いやつに会えるんだろ。だから、それだけだ」


 真帆は一瞬だけ言葉の理解に要し、ふっと噴き出すと、目尻に涙を浮かべるまでコロコロと笑った。

「あっははは! そっか、そっか。強いやつと戦うためか。紫苑はすごいね」


 真帆は目尻の涙を拭い去ると、笑顔になった。

「……分かった。それじゃあ今日からあたしたちはバディだね。あたしは記憶を戻すため、紫苑は強敵と戦うため、互いの利益のために協力しよ!」

「ああ、頼んだ」

 握手を求められ、紫苑は素直に応じた。こうして誰かの手を握るのも思えばずいぶん久しぶりだった。


「それじゃあ、移動しよっか」

「場所は分かってるのか?」

「うん。渋谷のあたりから大きな気配を感じるんだ」


 真帆はくるりと踊るように振り向いた。

「改めて、これからよろしくね。紫苑!」

 渋谷まで退屈はしなさそうだ。

 もう紫苑の表情筋の凝りは取れていた。

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