第一章 冥府宮の門前にて
第一章 冥府宮の門前にて
灰色の空が低く垂れ込め、潮のように湿った風が迷宮の門前を吹き抜けていた。
だが、この地においてそれは日常だった。
「虚王の冥府宮」。
死者の王がかつて築いたとされる地下の大迷宮。その入口を擁する第1層の街は、今や無数の冒険者たちが行き交う混沌とした都市へと姿を変えている。
石畳の通りを荷車が軋ませ、行商人の呼び声が飛び交い、冒険者たちの笑い声と怒号が入り混じる。
鍛冶屋からは鉄を打つ音が鳴り、祈祷所には負傷者が列をなし、ギルドの掲示板には新たな探索依頼が貼り出される。
この街は「門前街」と呼ばれ、冥府宮に挑むすべての者が一度は足を運ぶ場所だ。
そんな喧騒の中、ひときわ目を引く少女の姿があった。
漆黒に銀の縁を走らせた甲冑をまとい、腰に一振りの長剣を携えるその姿は、若くして数多の戦場を渡り歩いた老練の戦士を思わせる。
彼女の名はルシフェリス。
年若き人間の少女。だが、その双眸はどこか年齢に不相応な冷たさと静けさを宿していた。
「……ここが、“冥府宮”の門前か」
通りに立ち止まり、彼女はぼんやりと目を細めた。
通い慣れた者であれば素通りするような街のざわめきに、彼女はほんの少し耳を傾けていた。
何かを――あるいは誰かを探すように。
その日の午後、彼女は冒険者ギルドでの登録を済ませた。
肩書きには「ファイター」と記され、受付の少女は彼女の姿に少しばかり目を見張ったが、本人は特に気にするそぶりもなく、淡々と手続きを終えた。
「装備は……問題なさそうね。でも、よくあるのよ。最初だけ派手で中身が伴ってないのって」
そんな噂話が、彼女の背中を離れる前に小さく囁かれた。
ルシフェリスはそれにも動じず、街の片隅にある小さな酒場の扉を開いた。
***
その酒場、「銀の杭亭」は冒険者たちのたまり場として知られていた。
陽気な笑い声、酔っ払いの叫び、果ては喧嘩まで日常茶飯事だが、ここでの出会いが後に迷宮の運命を左右することも珍しくはない。
ルシフェリスがカウンターの端に腰を下ろすと、店主らしき大柄な男が無言で水の入った木杯を差し出した。
「新人か?」
短くそう問われ、ルシフェリスは小さくうなずいた。
「ああ、最近よく来るのよ。若いのに無茶ばかりするのが多くてな……ま、気をつけるんだな」
「ありがとう。心得てるわ」
言葉数は少なく、それでも彼女の口調には芯があった。
周囲の冒険者たちが一瞬だけ彼女に注目し、やがて興味を失ったようにそれぞれの談笑に戻っていく。
だが、一人の少女だけは違った。
「ねぇねぇ、そこのお姉さん! 強そうな剣持ってるじゃん! ねえ、触っていい?」
唐突に現れたのは、背丈の低い茶髪のハーフリングの少女。顔つきは幼く、瞳だけがきらきらと輝いている。
「……勝手に触るものじゃないわよ」
「えー、ケチー。でもなんかカッコイイ! あたし、シルカっていうの! 盗みはしないから安心してね!」
盗みはしない――と言いながら笑うその姿に、店主も苦笑を浮かべた。
「こいつ、街のガキどもに混ざって暮らしてるんだが、時々こうやって“面白そうなヤツ”に絡みに来るんだよ」
ルシフェリスは軽くため息をつきながらも、どこか嬉しそうな表情をほんの一瞬だけ見せた。
「……ルシフェリス。よろしくね、シルカ」
「うんっ!」
そのやり取りの向こう、奥の席では赤髪の少女がちらりとこちらを見ていた。
膝の上には魔導書、目元には戦いの火を宿したような鋭い視線。
だが彼女はまだ言葉を交わすことなく、静かにルシフェリスを観察しているだけだった。
やがて、日が傾きはじめ、冒険者たちが次第に宿へと戻っていく。
ルシフェリスは杯の水を飲み干し、そっと席を立った。
静かに街の通りを歩きながら、空を見上げる。
――この迷宮で、何を見つけるのだろう。
――あの人の……足跡は、この地下にあるのか。
誰にも聞かれないように、彼女は小さくそう呟いた。
彼女の旅は、まだ始まったばかりだ。
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