第2話 私と心先生とホチキス

「冴島先生、もう少し視野確保してください」

「はい」

「三島君、そこ、ちゃんと抑えてて」

「す、すみません!」

 オペ室内。

 心先生の冷静かつ的確な指示が飛ぶ。

 今日の患者のオペは難易度が高い。

 緊張感が室内を占拠する中、それでもその緊張感を翼に変えて、心先生は自由に舞う。

 私は自身に与えられた仕事をこなしつつ、それを静かに見守る。

 相変わらず、正確無比かつ速い。

 何より、困難な局面での独創性が高い。

 通常の医者なら戸惑う状況に陥っても、信じられないような角度からのアプローチでそれを乗り越えていく。

 多くの先生を見てきたけれど、若くしてこれほどの技術を持つ人はそうはいない。

 見惚れる、とはこういうことを言うのだろう。

 私は小さく尊敬の入り混じる息を吐き出した。

 ああ、今日も先生は素敵だ。



「ホチキスってキス入っててなんかエッチだよね」

「脳みその大事なページ、ホチキスで止められてます? 開けられません? 開けましょうか?」

 難しい手術のあった日の心先生は特に駄目だ。

 もう、昼間のあのカッコいい雰囲気は消えている。

 いや、最初からなかったのでは? と疑ってしまうほどだ。

 今はただ、カチカチとホチキスの端同士を虚ろな目で引っ付けたり離したりする生き物に成り下がっている。

 素敵って言ったのは誰ですか?

 その口をホチキスで止めてあげます。

「そんなこと言わないでよぉ。今日は頑張った分、千夏の優しさの半分をくれないとムリポだよぉ」

 ステーション内で仕事をこなす私の後ろを、オフィスチェアに乗ったまま追いかけてはツンツンと脇腹をつついてくる心先生。

 ちょうど人が出払ったタイミングで先生は来た。

 まあ、さすがに先生もこんな姿を他の看護師に見らえるのは嫌なのだろう。

 脳の機能が鈍っても、本質が社会的生き物なだけはある。

「私の優しさの半分でいいならあげますよ。院内の売店に落ちてるので拾ってきてください」

「なんでそんなとこに優しさ置いてきてるのぉ。とってきてよぉ。仕事を頑張った私のために急ぎとってきてよぉ。ていうか、もう売店も閉まってるじゃん。くれる気ゼロじゃんんんんんん」

 天井を仰ぎながらくるくると回り始めた先生。

「もうちょっと待ってください。これ終わったら、私は上がれるので」

 私は最後に引き継ぎ内容をパソコンに打ち始める。

「つまんないー。早く終わらせて飲みに行こうよー」

「はいはい。そうするために、今頑張ってるんです」

「ねえ、千夏の耳、口でかっちょんってしていい?」

「は?」

「なんかホチキス見てたら、私も何か挟みたくなってきてー。千夏の耳たぶって、ちょうどホチキスでかっちょんっできそうな薄さじゃない? でも、さすがにホチキスでは危ないから、私の口でならいいかなって?」

 カッコいいって言った奴、誰ですか?

 喉をホチキスの芯で刺してあげます。

「絶対に駄目です」

「ちょっとだけ。さきっちょだけでいいから」

「駄目です。次、言ったらもう金輪際、飲みに行きませんよ?」

「えーなんでぇ? 絶対、私の唇柔らかくて良きだと思うんだけど」

 言って、先生は唇を尖らせる。

「はい! 仕事終わりました! 飲み行きますよ!」

「やった! 行こ行こ! 今日はもう着替えてるし、バッグも持ってるから」

 先ほどのホチキスかっちょんは一体何だったのか、というほど先生の目は既に居酒屋に向いている。

 まったくほんとに。

 難しいオペがあった日の先生は本当に駄目だ。

 こっちとの距離をわきまえない。

 まったく、想像しちゃったよ。

 まったく。

 まったくほんとにもう。

 私は微かに熱を帯びた耳たぶに指先で軽く触れながら、先生と共に病院を後にした。


 

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